(社説)きょう憲法記念日 生きる権利の支柱として
                            北海道新聞  2021年5月3日

 日本国憲法は施行から74年を迎えた。昨年に続き、新型コロナウイルスの猛威に日本も世界も翻弄(ほんろう)される中での憲法記念日である。
 いま、私たちを取り巻く濃い霧は一向に晴れない。
 治療すら受けられずに自宅で亡くなる重症者が後を絶たない。
 ある日突然、苦しみに襲われ絶望とともに息を引き取っていく。
 あってはならないことが世界第3位の経済大国で起きている。
 仕事を失い、家賃が払えずに家を手放した人や、アルバイトがなくなり大学をやめざるを得なくなった学生も出ている。
 自殺者の数は上昇に転じた。
 憲法第25条1項は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」として基本的人権の柱の一つである生存権を全国民に保障する。その生きる権利や勤労の権利、教育を受ける権利が脅かされている。
 コロナ危機は憲法の危機だ。
 一人一人の命と暮らしを守る。憲法が課した使命を政治は全力で果たさなければならない。改憲論議に費やす時間はない。

■制定の原点に戻る時
 1947年5月3日、「新しい憲法明るい生活」と題した冊子が発行され、全国の家庭に配られた。新憲法の内容を分かりやすく伝えようと帝国議会の「憲法普及会」(芦田均会長)が刊行した。
 25条をこう解説している。
 「世間を見わたすと不幸な人は沢山ある。乞食、浮浪者、ゆき倒れの病人など、こういう気の毒な人々が戦争後はいよいよ多くなってきた」
 「国は気の毒な人々を助け、国民一人残らず人間らしい生活のできるように努めなければならないと定めてある」
 今日の視点で見ると差別的な表現もあるが、「一人残らず」との言葉に、廃虚にあって福祉国家建設を目指す決意がうかがえる。
 25条1項は連合国軍総司令部(GHQ)の草案になく、芦田が委員長を務めた帝国議会衆院憲法改正小委員会の審議で追加された。
 この生存権規定が、戦後の社会保障制度構築の土台になった。
 しかし現実は、コロナ禍以前から憲法の理想とはほど遠い。
 安倍晋三前政権が行った生活保護費の基準額引き下げは生存権の侵害だとして、受給者らが各地で国を訴えている裁判が象徴的だ。
 札幌地裁は3月、引き下げは合憲だとして訴えを退けた。
 原告の一人は、引き下げに消費税増税も重なり、やむなく食事の量や入浴の回数を減らしたと訴えた。道南にある養父母の墓参りにも行けていないという。
 人間らしい営みもできず、ぎりぎりの生活を強いられるのが「最低限度」ではなかろう。制定の原点に戻り、困窮者に寄り添う国の血の通った姿勢が今こそ必要だ。

■時代の要請に応えよ
 憲法に政治が追いついていないのは、ジェンダー(社会的・文化的性差)を巡る問題でも顕著だ。
 東京五輪・パラリンピック組織委員会会長を辞任した森喜朗氏の女性蔑視発言は、日本に根を張る旧態依然の体質を可視化した。
 賛成の世論が広がっている選択的夫婦別姓の導入には、保守的な家族観にこだわる自民党内の反対派が立ちはだかっている。
 憲法第24条2項は、婚姻や家族に関する法律は「個人の尊厳と両性の本質的平等」に立脚しなければならないとする。同姓を強いる民法の規定はやはり理不尽だ。
 2015年に同姓規定を合憲と判断した最高裁は、別の違憲訴訟を大法廷に回付し、改めて憲法判断を示す可能性が出ている。
 また札幌地裁は3月、同性婚を認めないのは法の下の平等を定めた憲法第14条違反だと断じた。
 夫婦別姓も同性婚も、憲法制定時には想定されなかった課題だ。
 法の下の平等や個人の幸福追求を保障した憲法の精神を尊重するなら、時代の要請を踏まえた解釈をすることは可能だろう。
 司法判断が国会を動かし、法整備につながることを期待したい。

■生かす責務国民にも
 憲法第97条は基本的人権が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であり、「侵すことのできない永久の権利」としている。
 一方で、第12条は自由や権利を保持する「不断の努力」を国民に求めた。憲法が社会に生かされていなければ声を上げるのは、主権者としての国民の責務と言える。
 森氏を辞任に追い込んだのも、声を上げた世論の力だった。
 昨年、安倍前首相から菅義偉首相に政権が移った。菅首相は安倍氏に比べ改憲への言及は少ない。
 だが学問の自由を危うくする日本学術会議の会員任命拒否に見られるように、憲法と国会をないがしろにする姿勢は変わらない。
 権力への不断の監視も国民の責務だ。秋までにある衆院選で投票するのは最低限の務めである。

 (社説)コロナ下の記念日 憲法の価値 生かす努力こそ
                                           朝日新聞  2021年5月3日

 今年の憲法記念日も、昨年と同様、新型コロナ対策の緊急事態が宣言される中で迎えた。
 全国の死者は累計1万人を超え、大阪は医療崩壊の危機に瀕(ひん)する。感染対策の強化と国民の暮らし、自由や権利をどう調和させるか、難しい局面が続く。
 7年8カ月の長期政権の間、改憲の旗を振り続けた安倍前首相は退陣し、後を継いだ菅首相に強い意欲はうかがえない。一方で、強権的な政治手法は相変わらずである。
 憲法が掲げる普遍的価値を揺るがす挑戦をどう受け止めればいいのか、主権者である国民もまた問われている。

「強制型」対策へ一歩
 「コロナ禍や未知の感染症など緊急事態への対応は、憲法に新たな問題を提起している」(自民党の石井正弘氏)
 「緊急事態での人権制約のあり方を議論する必要がある」(日本維新の会の松沢成文氏)
 連休前の4月末に開かれた参院憲法審査会。自民、維新両党から憲法に緊急事態条項を設けるべきだとの意見が出された。
 日本のコロナ対策は、時短・休業にしろ、外出自粛にしろ、罰則によらない、国民への「お願い」が基本だった。第1波をこの方式で乗り切り、最初の緊急事態宣言を解除した際、当時の安倍首相は「日本モデルの力を示した」と胸を張った。
 ところが、今年に入り2度目の宣言が出されると、新型コロナ対策関連法に罰則が導入された。政府案にあった刑事罰を、与野党協議で行政罰にとどめるなどの修正があったとはいえ、4日間の審議でのスピード成立からは、憲法が保障する営業の自由などを制約し、強制力を伴う対策に一歩踏み出すことへの深い思慮は感じられなかった。
 そして今、私たちは、変異ウイルスの猛威を受けた第4波のさなかにいる。

説明責任の持つ意味
 感染拡大を防ぐために、どこまで自由や権利の制限を受け入れるのか。非正規労働者らへのしわ寄せが深刻化するなか、憲法25条が保障する「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」をどう実現するのか。教育を受ける権利や集会の自由との兼ね合いは――。
 いずれも、各条文の趣旨を踏まえて熟考すべき重い課題であるが、それは憲法を変えねば対処できないということを意味しない。施行から74年、国民の間に定着し、戦後日本の平和と繁栄、自由な社会の礎となってきた憲法の諸価値を十分生かすことを通じて解を探るべきだ。
 この間、この国の政治指導者は、どれほど真摯(しんし)に国民に向き合ってきたであろうか。
 コロナ対策に限らず、安倍、菅両氏に共通するのは、説明責任を果たそうという姿勢の決定的な欠如である。国民の疑問や野党の質問に正面から答えず、その場しのぎで逃げる。自らの失敗や誤りを潔く認め、責任を引き受けることもしない。
 「説明責任は、憲法上の義務でもあります」
 コロナ禍で生じるさまざまな憲法問題をまとめた「コロナの憲法学」の編者で、千葉大教授の大林啓吾氏はそう語る。
 大林氏が注目するのは憲法前文にある次の一節だ。「国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」
 信託が成立するには、国民からの信頼が条件となる。信頼を得るためには、国民への丁寧な説明が不可欠というわけだ。
 コロナ対策では、西村康稔経済再生相ら担当閣僚が連日のように発信を繰り返しているが、首相が先頭にたって国民に訴える場面はほとんどない。これでは到底、信託は成り立つまい。

首相に課された責務
 首相は先の訪米時、ニューズウィークのインタビューに応じ、現行憲法は「今日の現実に追いついていない」としつつ、「改正は現状では非常に難しい」と認めた。
 「改憲ありき」の安倍路線を継承しないのは妥当な判断だ。しかし、首相が憲法の掲げる原則や価値に重きを置いているわけではないことは、前政権の官房長官以来の言動で明らかだ。
 森友・加計学園や桜を見る会をめぐる問題では、三権分立に基づく国会の行政監視機能をないがしろにし、米軍普天間飛行場の移設問題では、県民投票や知事選で繰り返し示された辺野古ノーの民意を顧みることはなかった。東京高検検事長の定年延長や日本学術会議の会員候補の任命拒否は、従来の法解釈を一方的に変更して強行された。
 首相はバイデン米大統領との会談や日米豪印4カ国の首脳協議などの外交舞台では、中国への対抗を念頭に、人権や法の支配といった普遍的価値と民主主義の共有を強調する。これらが日本社会に深く刻まれたのは、現行憲法によってであることを忘れてもらっては困る。

 憲法に忠実に従い、日々の政権運営に生かす。それこそが首相に課された責務である。

 
 (社説)コロナ下の自由と安全 民主社会の力を示したい
                                 毎日新聞  2021年5月3日

 目に見えない新型コロナウイルスが世界を覆い、社会と暮らしを激変させた。人類がかつて経験したことのない危機だ。
 日本は緊急事態宣言が東京都や大阪府などに発令される中、憲法記念日を迎えた。昨年に続く「コロナ下の記念日」である。
 医療現場で懸命の治療が続く。マスク着用や外出自粛、他人と距離を取ることが新日常となった。
 それでも感染拡大は収まらない。世界の50人に1人が感染し、310万人が命を落とした。日本では1万人以上が亡くなった。
 政治体制や地域を問わず各国がコロナの脅威にさらされている。
 とりわけ民主社会は重大な試練に直面する。問われているのは、市民に保障された「自由」と、人命を守る「安全」のバランスをどう取るか、という難題だ。

憲法で保障される権利
 本来、「自由」を重視するはずの欧米諸国で「安全」が優先され、都市封鎖(ロックダウン)の強制措置が取られた。
 英経済誌エコノミストの調査部門が発表する「民主主義指数」によると、日欧などの民主的な23カ国・地域中19カ国が昨年、「市民の自由」の評価で点数を下げた。
 イタリアの哲学者、ジョルジョ・アガンベン氏はコロナ禍で「『セキュリティー上の理由』のために自由を犠牲にした社会」になっていると警鐘を鳴らす。
 日本はどうか。政府の対応は後手に回り、医療体制は危機的な状況にある。ワクチンが行き渡るめどが立たない中、緊急事態宣言の3度目の発令に追い込まれた。
 コロナ対策を突き詰めれば、憲法問題に行き当たる。
 憲法は、国民の「生命、自由及び幸福追求」の権利について「最大の尊重」を国に求めている。だが、過去1年間、憲法が保障する権利という視点でのコロナ対策の議論は不十分だった。
 事業者への休業要請・命令は「財産権」の侵害に当たり、補償の対象ではないか。営業時間短縮は「営業の自由」に抵触しないか。立場の弱い人の「生存権」が脅かされていないか-―。こうした論点は置き去りにされた。
 コロナ下、国民の権利を制限する緊急事態条項を憲法に新設すべきだとの声が出ている。だが、感染対策という「公共の福祉」のためであっても権利の制限は最小限にとどめなければならない。
 コロナ対策の特別措置法も問題が多い。緊急事態宣言は国会への報告だけで発令でき、承認は必要ない。国民や事業者への協力要請は政令によって「何でもできる」状態になっている。
 感染状況が比較的落ち着いていた昨夏、時間があったにもかかわらず、政府と国会は特措法の不備を修正することを怠った。結局、特措法は感染第3波のさなかに、わずか4日間の審議で罰則付きに改正されてしまった。
 対策が自粛要請主体となったため、国民が損害賠償を求める「司法による救済」の道も狭まった。フランスでは昨年、840件のコロナ関連訴訟が行政最高裁で審理されたが、日本では数少ない。
 感染対策に国民の理解を得る上で必要なのは政治への信頼と、公平性と透明性の確保である。罰則の恣意(しい)的な適用は控え、政府と自治体は政策の決定過程をオープンにしなければならない。

市民参加で両立の道を
 憲法学が専門の棟居快行(むねすえとしゆき)・専修大学教授は「自由と安全を両立させる必要がある。安全を口実に国家が個人に介入し、内閣の勝手にさせないよう、国会が縛っていくことが大事だ」と指摘する。
 民主社会を成熟させるには、国会による行政監視だけでなく、市民の取り組みが欠かせない。
 ドイツ出身の社会心理学者、エーリッヒ・フロムはナチズムに服従した人間心理を分析した「自由からの逃走」で、個人の自発的な社会・政治参加によってこそ自由が実現できると説いた。
 参考になるのは、コロナ封じ込めに成功した台湾のケースだ。市民のアイデアを政策に反映する「オープンガバメント」(開放的な政府)の取り組みが進む。
 「政府が命令するわけではなく、市民が主体的に対策に関わったことが、感染の拡大防止につながった」。デジタル担当相の唐鳳(オードリー・タン)氏は語る。
 「自由か、安全か」の二者択一でなく、「自由も、安全も」を追求する世界をいかに実現するか。民主社会の力が試されている。

 (社説)憲法記念日 新たな時代へ課題を直視せよ
                                読売新聞  2021年5月3日

 変化が大きい時代だからこそ、国家の基本である憲法に立ち返り、新たな課題に取り組んでいくことが大切である。幅広い観点から、国民的な議論を深めたい。
 74回目の憲法記念日を迎えた。国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という基本原理は国民に根付き、戦後日本の礎となった。その理念を守り、後世に引き継ぐことは私たちの責務である。
 だが、憲法が制定以来、一切手を加えられていない現状は望ましい姿ではない。多くの国は時代の変化を踏まえ、条文を改めている。日本でも必要な課題があれば、改正を議論するのは当然だ。

現実との乖離ないか
 新たな感染症が蔓延し、国民の命や生活を脅かしている。隣国である中国は軍事大国化し、東シナ海などで緊張を高めている。情報通信技術が高度化し、人工知能(AI)が人間の仕事の一部を担うようにもなった。
 そんな時代が来るとは、憲法制定当時には想像も及ばなかったはずだ。そして、今後も変化し続ける日本社会や国際情勢に、70年以上前に制定された憲法が適切に対応するのは困難である。
 現実と憲法の間に乖離が生じていないか。憲法改正を避けることを優先するだけでは、解釈に無理が生じ、「法の支配」が形骸化する恐れがある。
 憲法の条文を見直して改正案としてまとめ、国民に提案する責任は立法府にある。
 時代の変化を、国民も敏感に感じ取っている。憲法に関する読売新聞社の世論調査では、憲法を「改正する方がよい」と答えた割合が7ポイント増の56%に上昇した。
 新型コロナウイルスの感染拡大で緊急事態への認識が深まったことや、一方的な行動を続ける中国への警戒感があるのだろう。
 大災害や感染症拡大など緊急事態の対応については、59%が「憲法を改正して、政府の責務や権限に関する規定を条文で明記する」を支持した。「個別の法律で対応する」は37%にとどまった。
 現行憲法には、緊急事態に関する規定がない。非常時の議論を怠ってきたために、コロナ禍での政府の対応が後手に回ったと受け止められているのではないか。国民の意識変化も踏まえ、与野党は論点を整理しておく必要がある。

各党は具体案を明確に
 自民党が2018年にまとめた憲法改正の条文案は、議論の有力なたたき台となろう。
 その主眼は、自衛隊の根拠規定を憲法に明記し、一部に残る違憲論を払拭することだ。現行の9条1項、2項を維持しつつ、自衛隊の保持を規定する条文を追加することを提案している。
 中国や北朝鮮が東アジアの平和と安定を脅かすなか、日本の安全保障を担う自衛隊の存在をはっきりと憲法に位置づける意義は大きい。自民党は改正の内容や狙いを十分に説明し、国民の理解を得る努力を続けなければならない。
 自民党案は、大災害の発生時に政府が国民の生命や財産を守るため、緊急政令を制定できるという規定や、国会議員の任期を延長できる特例を盛り込んでいる。
 私権を無原則に制限しないように、どのような歯止めを設けるべきか。また、感染症蔓延やテロを緊急事態の対象に加えるかといった課題もある。多角的に検討を重ねてもらいたい。
 国民民主党も昨年末、改正の論点整理を公表している。インターネット空間でも個人の尊厳が守られるよう、個人の尊重を規定する13条の改正を提唱した。
 デジタル技術は、家庭や教育をはじめ社会全般に浸透している。巨大IT企業は、国境を超えて膨大な個人情報を収集し、経済や言論活動にも国家権力に匹敵するほどの影響力を及ぼしている。
 憲法の観点から、規制の方向性を考える意味は小さくない。

審査会は本格討議を
 コロナ禍で浮き彫りになった国と自治体の連携不足や、衆参両院の役割分担と選挙制度のあり方など、検討課題は山積している。
 国会の憲法審査会で、論議が停滞しているのは残念だ。
 自民、公明両党と日本維新の会などが18年に提出した国民投票法改正案は、改正公職選挙法に合わせた内容であるにもかかわらず、立憲民主党などが採決に反対してきた。憲法そのものの討議を進める足かせとなっている。
 国の最高法規の論議を回避するようでは、立法府は責任を果たしているとは言えまい。与野党は、早期に改正案を成立させ、本格的な憲法論議に着手すべきだ。

 
 (主張)憲法施行74年 抑止力阻む9条は不要だ 菅首相は改正論議を加速せよ
                                産経新聞  2021年5月3日

 難局が重なる中で、現憲法は施行74年を迎えた。
 日米首脳は4月の会談時の共同声明で、中国の脅威を念頭に、台湾海峡の「平和と安定の重要性」を強調した。尖閣諸島を含む沖縄と、台湾の平和と安全は切り離せない。
 北朝鮮の核・ミサイル、日本人拉致の問題は解決の兆しがみえない。新型コロナウイルスの感染拡大で3度目の緊急事態宣言が4都府県に発令されている。
 これらの危機を乗り切るに当たって、今の憲法は十分ではない。早期の改正が必要である。

 ≪「同盟拡大」も許さない≫
 まず指摘したいのは、日本の平和を守っているのは憲法第9条ではなく、自衛隊と日米安保条約に基づく米軍の抑止力であるという点だ。力の信奉者である中国や北朝鮮が日本の憲法を尊重するはずもない。冷戦期の旧ソ連も同様だった。
 抑止力の整備が安全保障や外交力を裏打ちするが、9条を旗印にする陣営はそれを理解せず、現実的な安全保障政策を妨げてきた。安保関連法の制定などはあったが、9条の弊害はなお根強い。
 日本が掲げる「自由で開かれたインド太平洋」構想は多くの国から賛同を得ている。日米豪印4カ国は安保協力を進める「クアッド」という枠組みを作った。いずれも国際法を無視した中国の膨張を防ぐねらいがある。
 安倍晋三前首相は雑誌「外交」のインタビューで、在任中のメイ英首相(当時)とのやり取りについて、「特に日英関係を強化したい-彼女は日英同盟と呼びたいと言っていました」と明かした。
 日本が9条を持たない普通の民主主義国であれば、日英関係や「クアッド」を同盟に発展させる道を検討してもおかしくない。中国は「クアッド」をアジア版NATO(北大西洋条約機構)だと批判するが、それ自体が「クアッド同盟」が中国の拡張主義を阻むことを示している。
 だが、日本では同盟国を増やして平和を守ろうとする議論はほとんどない。日英や日豪の準同盟という話にとどまるしかない。
 9条は日本の存立に関わるという限定的な場合しか集団的自衛権の行使を認めない。そのため日本は、他国と幅広く守り合う約束ができない。米国は日本に基地を置く利点が大きいため同盟関係にあるが、他の国との同盟で抑止力を高める道は封じられている。
 尖閣諸島(沖縄県)防衛では海上保安庁の手に余る事態に自衛隊が速やかに出動して対処できるか依然として不安がある。
 原因の一つに、自衛隊が諸外国の軍のように迅速かつ強力に動けない制約がある。政府が自衛隊法を、行動、権限を個別に規定する「ポジティブリスト」方式にしたままであるためだ。世界標準の軍のように、とってはいけない行動を定める「ネガティブリスト」方式に改めれば、抑止力は格段に高まる。政府は国際法上、自衛隊は軍として扱われるとしており、自衛隊法の改革は現憲法下でも可能なはずだが、9条を振りかざした強い反対が予想され、政治課題に上っていない。

 ≪コロナ禍が欠陥示した≫
 「戦力不保持」を定めた9条2項を削除して、自衛隊を軍と位置付けたり、軍の保持を認めたりすることが9条改正のゴールだ。自衛隊の憲法への明記は、改革の途中段階としてなら意味がある。
 新型コロナ禍は、危機、緊急事態にうまく対応できない現代日本の欠陥を露呈させた。感染症に備えた緊急法制はあっても、運用する政治家、官僚が平時の感覚から抜けられず、後手の対応に回っている。平時の法制や手続きにこだわっていては多くの国民の命や国の存続が脅かされる。緊急事態への対応を憲法にも定めたい。そうすることで政治家や官僚に、緊急事態への心構え、国民を救う果断な行動をとろうという問題意識を植え付けたい。緊急事態を確実に解除する憲法上の規定ももちろん重要である。
 憲法改正をめぐる国会の動きが鈍いのは残念だ。平成28年の公職選挙法改正内容を反映するだけの国民投票法改正案が、ようやく連休明けの衆院憲法審査会で採決される見通しとなったが、カタツムリのような歩みにはあきれる。
 菅義偉首相は最大政党の党首として、憲法改正論議の加速へ指導力を発揮してもらいたい。

 (社説)憲法記念日に考える 人類の英知の結晶ゆえ
                                   東京新聞  2021年5月3日

 外務大臣公邸で日本政府と連合国軍総司令部(GHQ)が新憲法の秘密会談を持ちました。1946年2月13日のことです。
 東京の旧麻布区市兵衛町(現在の港区六本木一丁目)にあった公邸は空襲で爆撃を受け、玄関に壁はなかったそうです。

 その日を境にして、新憲法案の姿ががらりと変わりました。
 政府の「憲法問題調査委員会」がつくった案は明治憲法とさほど変わりばえせず、GHQは不満を持っていたのです。何しろ天皇主権はそのままですから。
 「問題を言葉の見せかけと西方に向かってお辞儀だけで解決しようとしていた」とGHQ民政局に酷評されています。

◆戦争は社会契約を攻撃
 午前10時。ホイットニー民政局長は太陽を背に座りました。当時の吉田茂外相や同委員会のトップだった松本烝治国務相の顔が最もよく見えるように…。そして、GHQは自らの憲法案を提示したのです。そのとき米国の飛行機が上空を飛んで行きました。
 ホイットニーがポーチから庭の日当たりのいい場所に出ている間、日本側はGHQ案を熟読しています。40分後に部屋に戻ると、吉田の表情は暗く、不機嫌でした。国民主権や象徴天皇制、戦争廃止などの条文があったのです。
 米国側文書に基づく描写です。「これが受け入れられれば天皇は安泰だ」とホイットニーが言ったとも…。
 「押しつけ憲法だ」と言われるゆえんですが、実際に天皇の戦争責任を問うオーストラリアやソ連などでつくる極東委員会が始まる直前でもありました。
 18世紀の哲学者ルソーの教えでは、戦争とは相手国の社会契約に対する攻撃です。つまり敗戦国は従前の社会契約を破棄し、新しい原理の社会契約を国民との間で結び直さねばなりません。

◆平和を道徳だけにせぬ
 それが新憲法をつくる意義です。なのに日本側は「伝統的な原理および古い習慣に固執」(民政局報告書)していたから、GHQは極東委員会の開催を前に、しびれをきらしたのです。
 そもそも45年7月のポツダム宣言に日本は従う義務があります。非軍事化と民主化、基本的人権などの確立、「国民による平和的政府の樹立」などが列挙されていました。まるで日本国憲法の骨格のようでもあります。
 昭和天皇による9月の「平和国家の確立」の勅語(ちょくご)、翌年正月の「人間宣言」も重要です。
 何より民間の「憲法研究会」による新憲法案が45年12月にGHQに出されていたことに注目すべきです。これにはGHQ側が強い関心を持ったことが判明しています。こんな内容でした。
 統治権は天皇ではなく「国民ヨリ発ス」と、まず国民主権を。さらに天皇は「儀礼ヲ司(つかさど)ル」とあります。人権保障の条項も一新し、労働権や男女平等、学術や教育の自由の規定もありました。
 中心人物の一人は在野の憲法学者・鈴木安蔵です。明治時代の自由民権運動を研究した人物です。内容は日本国憲法そっくりです。「民間の草案を土台とできる」などとGHQの高官が評価したのも納得できます。
  近代憲法の第一段階は基本的人権の保障です。第二段階は生存権や労働者の諸権利など社会権の装備です。平和主義に立ち、平和的生存権をうたった日本国憲法は第三段階です。最先端のレベルといえます。では、戦争放棄が誕生した経緯は何でしょう。
 当時の首相・幣原喜重郎が46年1月24日、連合国軍最高司令官マッカーサーを訪ね、提案した説を重視します。
 幣原が死ぬ前に真相を語った文書やマッカーサーの米国議会での証言、自伝など生々しい史料が豊富だからです。外相時代の幣原が軍縮条約や不戦条約にかかわった経験ともつながっています。
 平和主義は、太平洋戦争で未曽有の犠牲者を生み、原爆を体験した日本ゆえの選択でもあったと思います。
 戦争放棄の9条は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」で始まりますが、これはGHQ案にも政府案にもなかった文言です。
 社会党の鈴木義男が議会の小委員会で提案しました。戦前に東北大教授だった人で、法律家として「平和が道徳で終わらないように」という信念がありました。

◆国民の支持あってこそ
 つまり米国からの外力、国内の内力を合わせ、人類の英知を詰め込んだ憲法となったのです。施行後に「押しつけ」を疑った極東委員会が再検討を促したものの、四九年に断念しました。国民の圧倒的な支持があったためです。
 今なお押しつけ論を述べる勢力がありますが、歴史を深く顧みてほしいものです。               

 
 (社説)憲法記念日 危機こそ法の支配徹底を
                            茨城新聞  2021年5月3日

 日本国憲法は3日、施行から74年を迎えた。新型コロナウイルス感染症で3度目の緊急事態宣言が東京など4都府県に発令され、昨年と同様に憲法が保障する基本的人権が一部制約される中での憲法記念日である。
 私権を制限するさまざまな規制によって、国民は不自由な生活を強いられている。休業要請や解雇・雇い止めで生活の糧を奪われた人も多い。憲法25条が保障する「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」は守られているだろうか。
 自民党や自治体首長には、個人の権利をさらに規制する法整備や、緊急事態に内閣の権限を強化する条項を新設する改憲を主張する声がある。
 しかし、コロナ禍に乗じた私権制限の拡大や拙速な改憲論議は認められない。危機の事態にこそ「基本的人権の尊重」などの憲法の基本原理を再確認し、国家権力は憲法に縛られるという「法の支配」を徹底すべきだ。
 度目の緊急事態宣言の発令に当たって、菅義偉首相は「思い切った人流抑制に踏み込んだ」と強調した。強い措置の一例は、酒類を提供する飲食店への休業要請だ。しかし、その法的根拠は新型コロナ特別措置法にも同施行令にもあらかじめ明記されていない。施行令に基づいて厚生労働相が「必要な措置」と定めて追加されたものだ。確かに感染防止の対策は徹底しなければならない。だが、営業の自由を侵害する恐れのある規制を内閣の一存で拡大していいのか。国会で十分に審議すべきではないか。
 感染を抑えられない原因は冷静に分析すべきだ。大阪府の吉村洋文知事は「個人の自由に義務を課す法令が必要だ」と述べた。しかし、まず問われるのは十分な補償措置を伴わない私権制限の在り方だろう。
 自民党などが主張する緊急事態条項も現実を踏まえた議論が必要だ。コロナ対応で明確になったのは、現場に近い自治体の役割の重要性だ。内閣の権限強化よりも、地方への権限委譲や国と地方の連携体制の見直しなどを急ぐべきだ。
 安倍、菅両政権の下で「法の支配」はないがしろにされてきた。菅首相による日本学術会議の会員任命拒否は、会員の定数を定めた学術会議法上の「違法状態」を生じさせている。「学問の自由」を侵害しているとの指摘に対して、首相は一切説明していない。
 安倍前政権は、従来の憲法解釈を閣議決定で変更し、集団的自衛権の行使を解禁する安全保障関連法を2015年に制定した。政府の法令解釈を担う内閣法制局も厳格さを失っていると指摘せざるを得ない。
 平和主義の意義も再確認したい。中国の軍拡や北朝鮮の核・ミサイル開発の脅威に対抗し、敵基地攻撃能力の保有や条改正論が自民党などで強まっている。だが、平和的な解決しか日本が取る道はあり得ない。
 自民党は条への自衛隊明記など4項目の改憲条文案をまとめ、早期審議を主張している。主導してきたのは安倍晋三前首相だ。しかし、安倍氏自身が昨年月の退陣表明の記者会見で「国民的な世論が十分に盛り上がらなかった」と認めたように、国民には早急な改憲を求める声はない。
 コロナ禍に求められるのは、現実を踏まえ、本当に必要な憲法改正の課題があるのかを冷静に議論することだ。

 (社説)憲法施行74年 国際平和の原則 実践を
                              琉球新報2021年5月3日

 憲法は施行から74年を迎えた。戦争放棄の9条を掲げ、平和主義を基本原則とする憲法の重みが今ほど増している時期はない。
 憲法が掲げる「平和」とは、軍事力に頼らない国際平和主義である。戦争や圧政などによる恐怖や、貧困、飢餓、人種差別などの「構造的暴力」を克服する概念と言える。
 米中対立が激しさを増す中、国際社会の緊張緩和と信頼醸成のため、平和憲法の原則の実践こそ求められる。
 ところが、国民の対中感情の悪化やコロナ禍を利用して、改憲勢力が勢いづいている。自民・公明両党は、改憲手続きを定めた国民投票法改正案を、連休明け6日の衆院憲法審査会で採決し、11日に衆院通過させる方針だ。多くの問題について議論は一切深まっていない。6月16日の国会会期末までの成立を狙った、日程ありきの強行突破だ。
憲法学者の水島朝穂早稲田大教授は、憲法を変える前提として(1)高い説明責任(2)情報の公開と自由な討論(3)熟慮の期間―を上げている。憲法を変えるという側は、憲法を変えないことによる不具合を具体的に説明し、その上で、憲法を改めることでしか問題が解決しないことを明確にする必要があるというものだ。
 自民党は2018年に(1)9条への自衛隊明記(2)緊急事態条項の新設(3)参院選「合区」解消(4)教育無償化・充実強化―の改憲4項目をまとめている。このうち、参院合区の解消と教育無償化は、教育や選挙制度に関する法律で対応が可能だ。どうしても憲法を変えなければならないという説明が足りていない。
 聞こえのいい政策で9条改憲の本音を隠した、カムフラージュと言うほかない。自民党は米国との軍事的一体化に前のめりだ。憲法に抵触する集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法を、数の力で成立させたことを忘れてはならない。
 緊急事態条項については、新型コロナウイルス対策の徹底を求める国民世論を逆手にとり、内閣に強大な権限付与を認めるため改憲が必要だという主張がされている。しかし、現状で新型コロナ特措法があるように、これも個別の法律で対応できる。
 何より、私権制限を伴う緊急事態条項は、個人の権利尊重や、法によって国家権力を縛る「立憲主義」といった、憲法の理念を根本から変えることになる。コロナ禍の空気を利用して一足飛びに手続きを進めていいものではない。
 アドルフ・ヒトラーは、当時最も民主的と言われたワイマール憲法の緊急事態条項を利用して政権を奪取。国会で全権委任法を成立させナチスの一党独裁を確立した。緊急事態条項には平和憲法を骨抜きにする危うさがある。
 憲法問題の前に、感染症のまん延を許した政府の不手際をきちんと検証した上で、そこから必要な対策や法制度を熟議していくことが筋だ。