「私が原発を止めた理由」を読んで
                                                                高橋 征夫

 まずは、タイトルのインパクトに引き寄せられ、表紙を飾る漆黒の法服を纏う凛とした裁判官の姿に、緊張感を覚えながらページを見開いた。
 福井地裁による「関西電力大飯原発運転差止め判決」(2014年)と、「同高浜原発再稼働差止め仮処分決定」(2015年)は、原発推進派に大きな衝撃を与え、“脱原発”を目指す人々には「福島第一原発事故を経て、ようやく真っ当な司法判断が下された」と歓喜して迎えられた。しかし、その画期的判決は、無念にも2018年に名古屋高裁金沢支部によって覆され、その後原告団が上告を断念する事態となり、原発再稼働の流れを止めるに至らなかった。
 その2つの裁判を担当し退官された樋口英明氏が、「裁判官は弁明せず」との格言をあえて乗り越え刊行された本書は、差止め判決の詳細な解説書とも言うべき内容だが、その眼目は、①「原発は地震が起きても大丈夫にしているはず」という世の中の常識に反し、実際の耐震性がきわめて脆弱である事実を明解に示したこと。②そのうえで、「憲法に定める人格権は、電力会社の経済活動に優先する」と断定し、原発の運転差止めを命じたこと。③さらに、これまでの原発訴訟の問題点を抉り出し、その具体的な改善策を提言している、ところにあると受け止めた。
 福島第一原発事故の詳細な分析を出発点とし、専門知識を持たない素人でも分かる論理によって、「わが国の原発の耐震性(基準地震動)は、住宅メーカーが一般住宅に定める基準値以下」であり、「マグニチュード6クラスのありふれた地震でも危うくなる」と断定したことは、とりわけ衝撃的だった。なぜなら、脱原発を求める多くの人々でさえ、3・11以前はもちろん、むしろ事故後はなおさらに「原発の安全性とは“巨大地震への備え”だ」との思い込みに囚われていたように思えるからだ。実は私自身も本書を読んで初めて、差止め判決の意味を正しく理解できた一人だ。
 原発事故を“パーフェクトの危険”と位置づけ、「命を守り生活を維持するという人格権(憲法13条、25条)は、電力会社の経済活動の自由(憲法22条1項)に優先する」と結論づけたことは、近年の「憲法判断に及び腰」な悪弊を打破し、司法本来の責務を全うする判決だった。そしてまた、この論理は法廷の外においても脱原発運動が高く掲げるべき理念であることを学んだ。
 原発訴訟の現状を「権威主義・先例主義・科学者信奉主義に囚われ、専門技術論争・学術論争に陥っている」と分析し、「被災者の身になりリアリティを失わないことが“法曹人の原点”である」との鋭い提言は、これまでの脱原発陣営の努力を是としつつも、その弱点克服に向けた貴重なアドバイスであり、今後の法廷闘争にしっかりと生かすべき重要な教訓だと思う。
 大飯差し止め判決の基点であるように、「福島第一原発事故を経験した私たちは、それ以前にくらべて遥かに重い責任を負わなければならない」との本書の主張にはまったく同感である。最悪のメルトダウンに陥りながら、いくつもの奇跡と幸運に恵まれ、辛うじて「東日本壊滅」を免れたという厳然たる事実。しかも、事故処理も復興も道半ばにありながら、なおも「原発再稼働」に突き進む原発推進派の無責任ぶりは許し難い。とりわけ、当該電力会社など一部労働組合が原発推進を掲げていることは、残念でありまた社会の趨勢に逆らう誤りだと断じなければならない。
 かつては「絶対安全神話」をふりまき、3・11後は一転して「放射能安全神話」を唱える原発推進派の無節操と厚顔ぶりには呆れるばかりだが、状況次第で物事の論理をなし崩しにするのが彼らの常套手段。3・11後「放射線年間被ばく線量を1ミリシーベルトから20ミリシーベルト」に引き上げ、「原発運転耐用年数40年を実質60年」に延長したのはその典型で、無謀なトリチウム汚染水の海洋投棄や汚染土を全国で使用する計画なども、その危険性を隠蔽しつつゴリ押しする姿勢だ。
 本書のテーマからは外れるが、昨今多発している原発不祥事はどうだろう。2019年に発覚した「関西電力高浜原発汚職事件」は原発巨大利権の実態を明らかにし、トラブル頻発の東京電力柏崎刈羽原発の「IDカード不正使用」(2020年)、日本原子力発電敦賀原発では「活断層地質データの書き換え」(同)など、信じがたい不正事件が続発して、今や各電力会社の「原発運転の適格性」が根底から疑われている。厳重であるべき原発管理体制がこの体たらくでは、自然災害に加えて「ヒューマンエラーの危険性」をも声を大にして訴えなければならない。原発推進派がいかに安全性を唱えようとも、スリーマイルもチェルノブイリも、“人為ミス”が招いた大惨事であった事実を忘れてはならない。

 さらに、たとえ無事故で運転を終えても、なお幾つものハードルを超えなければならないのが原発の宿命だ。しかし、その課題と現状を見渡せば、「核燃サイクル」はすでに破たんし、「国内再処理と中間貯蔵地」の展望はなお不透明、「廃炉」の法的な定義さえ未だ定まらず、「使用済み核燃料などの最終処分」については「400年間は電力会社が管理し、その後10万年は国が管理する」という絵空事のような方針があるだけで、具体的な目途は何一つ立っていない。この八方塞がり状態で再稼働を強行することは、まさに危険と矛盾の先送りでしかない。「百年河清を待つ」どころか「10万年無毒化を待つ」という、誰も責任の取りようがないその計画に、どれだけの費用と労力を要するのか。「原発は低コスト」との宣伝はまったくの虚構でしかない。
 今年3月に「日本世論調査会」が実施した世論調査によると、「将来的に原発ゼロにすべきと答えた人が68%」、「今すぐゼロは8%」で、計76%が脱原発を志向しており、驚くことに「再び深刻な原発事故が起きる可能性があると答えた人は90%」という結果が出ている。このように、圧倒的多数が原発の危険性に不安を感じ、それゆえに“脱原発志向”は今や国民の多数派であり社会的大義であることが確信できる。
 本書の“はしがき”には「原発の本当の危険性を知ってもらうのが、この本の目的」と記されているが、その目的は十分に達成されている。とりわけ4項目に分類した「原発推進派の弁明」に対し、的確な反論が分かりやすく明示されていることは、脱原発運動を担う人々に大きな勇気と確信を与えるだろう。その意味で“脱原発運動必携の書”とすべき一冊だと思う。前掲の世論調査で「今すぐゼロが8%」に留まるのは、原発推進派による「電力不足の不安」や「カーボンニュートラルに有用」との宣伝が影響していると推測されるが、それらが杞憂に過ぎないことも、本書では十分に論証されている。
 ともあれ、豊富な経験を有し裁判所の内実に精通した樋口氏が、在野の立場で本書の刊行をはじめ自由な言論活動を始められたことは、脱原発運動にとって千人力を得たものと歓迎し、心強く受け止めている。
 政・官・財が一体となった「原子力ムラ」の壁を打ち破ることは容易ではないだろうが、私もまた「脱原発社会」の早期実現を目指し、シニアネットの仲間の皆様とともに、声を上げ行動して行きたいと思う。本書は、その思いをなお一層力強く後押ししてくれた。

<追記>
 本棚の隅に眠っていた「反原発事典Ⅱ」(現代書館1979年発行)を引っ張り出してみたら、「原発推進猛語録」というコーナーに各界主要人物の次のような言葉が並んでいたので、その幾つかをご紹介する(肩書は当時)。
■「原子力は必要なんだ。危険だ、安全だという議論はムダだ。」(佐々木義武・科学技術庁長官=原子力委員長、政府広報誌『時の動き』75.4.15)
■「緊急炉心冷却装置なんてものは、ヒマな学者先生に考えてもらえばいい。」(浅田忠一・日本原子力発電敦賀発電所長、『朝日』73.3.20)
■「女の人が原子力の問題を考える必要はない。女の人なら料理の講習は各営業所でやっているので、そちらにどうぞ。」(岩田和夫・関西電力広報部課長『反公害通信大阪』76.5.20)
■「美浜原発の事故は、原因ははっきりしないが、放射能がちょっと漏れただけ。検知する機械が敏感すぎるんだ。ちょっとでも放射能が出れば危険だという考え方は、再検討する必要がある。これでは原発に賛成している人にまで不安を与える恐れがある。このことの方が問題だ。」(吉村清三・関西電力社長『日経』『毎日』74.7.19)
■「原発に反対などと言っているのは日本だけ。たとえばフランスでは、原発反対運動はひとつもない」(小説家・堺屋太一こと池口小太郎・工業技術院研究開発者<勝共連合系学術誌>『アカデミー』第10号)
■「原発反対運動は未開人・野蛮人の論理であり、文明生活を営む資格さえ疑いたくなる。日本の恥といっても過言ではない。」(福田信之・筑波大副学長『サンケイ』74.7.13)
■「原子力発電は言葉がまずいから、未来発電と呼ぶことにしたら…。」(上坂冬子・評論家『静岡新聞』78.9.27)
■「日本の原子力関係者には使命感が欠けている。原子力委員たちもぐずぐずしていて、本当の推進派とは言い難い。こういう人たちに日本のエネルギーを任せてはおけない。」(大熊由紀子・朝日新聞記者『ペン』78.10)

 「時代が時代だから…」との評価もあるだろうが、政・官・産・学に文化人・ジャーナリストまでが揃っての妄言大合唱。思えば、なるほど、福島第一原発事故は、起こるべくして起こったのだ…。