(社説)原発被災から9年 重い現実を見すえ一歩ずつ
                                            朝日新聞2020年3月11日
 
 1万8千人を超える死者・行方不明者を出した東日本大震災から9年がたった。東京電力福島第一原発の汚染水問題で、安倍首相が「状況はコントロールされている」と断言して招致に成功した「復興五輪」が近づく。
 しかし堤防のかさ上げや土地の整備が進んでも、更地のままの被災地は多い。
 とりわけ福島県は、4万人がふるさとを離れたままだ。放射線量が高く、人が住めない帰還困難区域も残る。現地を訪ねた首相は7日、「福島の復興なくして日本の再生なし」と話したが、今の福島をどう考えるか、自らの言葉でていねいに語ることはなかった。

 ■響かぬ復興アピール
 聖火リレーが26日、原発事故の対応拠点だったサッカー施設Jヴィレッジを出発する。
 福島第一原発がある双葉町は今も全町避難が続くが、JR常磐線の全線開通を前に駅周辺を行き来できるようになった。聖火は列車で町に入り、駅前の真新しい広場を1周半する。少し先には電器店や薬局、学校もある。しかし店員や客、生徒はいない。映画のセットのように建物がたたずむだけだ。
 町はまず、駅前に開いた役場の連絡所で住民票の取り扱いを始めた。2年後の住民帰還を目ざすが、避難先で新たな生活基盤を築いた人も多い。町などの昨秋の調査では、6割超の世帯が「戻らない」と答えた。
 双葉町に限らず、あちこちの町や村に、汚染土などを詰め込んだ保管袋が積み上がる。聖火リレーのコースからは目に入りづらい光景だ。住民には「復興のアピールはパフォーマンスにすぎない」とも映る。
 復興は、ここではまだスタートしたにすぎない。

 ■難題に真正面から
 政府も分かっているはずだ。閣議決定された「復興・創生期間」後の基本方針では、地震や津波の被災地は復興の総仕上げの段階だと位置づけているが、原子力災害には中長期的な対応が必要だという。
 双葉駅から海側へ進むと、政府が管理して汚染土を保管する中間貯蔵施設が広がる。広さは、ざっと東京ドーム340個分。第一原発がある双葉、大熊両町の林や田畑、家屋が汚染土の受け入れ場所になった。
 搬入開始から30年で県外へ運び出すことになってはいるものの、土地を提供した住民の一人は「いったい、どこのだれが受け入れてくれるのか」と懐疑的だ。原発の廃炉で出る放射性廃棄物や溶け落ちた核燃料の処分方法の検討も進んでいない。
 原発の汚染水を浄化処理したトリチウム水については、政府の有識者会議が、薄めて海に流す処分を最有力視する報告書を3年がかりでまとめた。だが、いつ、どこでどう処分するかの具体案には踏み込めなかった。風評被害への懸念も深い。
 社会全体で真正面から向き合わねばならぬ難題ばかりだ。目を背けていては、また福島の負担となりかねない。
 しかし、例えばトリチウム水について、報告書には「処分開始が遅ければ遅い方が世の中の関心が小さくなる」と、事故の風化をあてにするような記述すらあるのが現実だ。
 復興への道のりは長い。昨春から住民の帰還が始まった大熊町。1万人以上が住民登録をしているが、実際の居住者は約730人で、東電関係者以外は100人ほどだと町はみる。
 商店街があった駅前から離れた場所に整備された復興公営住宅には、お年寄りが目立つ。大熊でも「戻らない」と考える世帯が6割にのぼる。
 ある洋菓子店主(62)は、県南東部のいわき市で店を再開して7年がたった。大熊で自分の店が必要とされ、やっていけるとは、まだ思えない。人がまばらで、女性や子どもがほとんどいないと感じるからだ。

 ■新しい町をつくる
 厳しい現実を見てきた双葉町は、人の息づかいが分かる小さなコミュニティーづくりから始める考えだ。伊沢史朗町長は「町を新たにつくり直すことに取り組んでいる」と話す。
避難先の埼玉県加須市に家を建てた男性(66)は、双葉町に家を借りて行き来したいと考えている。町を守るためだが、双葉に「帰る」より「行く」という言葉が、しっくりくるようになっている。
 思い描く復興の姿は人それぞれに異なり、時の経過とともに変わりもする。町に戻る住民もいれば、戻れなくても避難先から通う人もいる。離れて暮らす住民ともつながりを保ち、祭りなどの伝統文化の維持にも努める。そして新しい住民を呼び込める町づくりを進める。
 復興に関心を持ったり地域の支援に関わったりで、定期的に訪れる「関係人口」や「交流人口」を増やす考えも広がる。
 子や孫の代まで見すえ、どんな町や暮らしを描くのか。自治体や政府に何ができ、国民一人ひとりがどう関われるのか。考え続けなければならない。


  (社説)大震災9年 整備された基盤を生かしたい 
             
                     読売新聞2020年3月11日 

 新型コロナウイルスの影響により、各地の追悼式典が中止される中で、東日本大震災の発生から9年を迎えた。
 死者・行方不明者や、震災後に亡くなった関連死の人は2万2000人に上る。心から哀悼の意を表したい。
 被災地では、仮設住宅団地の居住者が900人台に減る一方、復興住宅の整備や宅地造成の進捗率は100%に近づいている。宮城県から青森県まで続く三陸沿岸道路も来年度には完成する。
 32兆円の国費を投じる被災地の生活基盤整備は、終点が見えてきたと言えよう。
 8年にわたる復興計画を終えたのが宮城県女川町だ。多くの犠牲者を出し、人口は4割減ったが、中心部のかさ上げ地には、新たな商店街ができ、週末には地元の人や観光客でにぎわう。
 住民の意見集約が早く進んだことが、コンパクトな街づくりに結びついた例だろう。
 他方、整備された基盤が生かされていない自治体もある。
 岩手県陸前高田市の造成地では現在も空き地が目立つ。津波で流された中心街に大量の土砂を運び込んでかさ上げし、60ヘクタール超の宅地を造った。だが、実際に利用されているのは半分に満たない。
 国土交通省が昨秋に行った被災3県の土地区画整理事業の調査では、約35%が未利用地だった。造成に時間がかかり、避難先で暮らす地権者が、元の土地での生活再建を諦めた例が多い。
 幅広い世代が交流できる場を設けるなど、こうした土地を活用する手立てを考える必要がある。
 ハード面に加えて、ソフト面の対策の充実も欠かせない。
 被災経験に苦しむ人は少なくない。震災直後から子供の心のケアを続けている臨床心理士によると「私の持ち物を取りに戻ったお父さんが津波にさらわれた」と今なお自分を責める女性がいる。
 ある女性は「生活再建に追われ、そのいらだちから子供に当たってしまう」と悩みを打ち明けたという。自治体や民間の福祉団体が連携して、被災家庭への訪問相談を実施するなど、今後も継続した支援が求められる。
 ここ数年、震災の記憶を伝承する取り組みが進んだ。陸前高田市には津波伝承館が誕生し、被災した消防車や体験者の手記が展示されている。宮城県気仙沼市や東松島市では、被災した校舎や駅を震災遺構として保存している。
 一人でも多くの人が震災を知ることで、風化を防ぎたい。

 
 (社説)東日本大震災から9年 新しいつながり育てよう 
                                 毎日新聞2020年3月11日

 東日本大震災からきょうで9年となる。あの年、小学生になった子どもたちが今春、中学校を巣立つ。
 ハード面の整備は総仕上げの段階にある。計画された計約1万8000戸分の宅地造成は99%が完了した。当然のことだが、それで復興が終わるわけではない。
 被災地では今、何が求められているのだろうか。
 東京電力福島第1原発事故で町域の大半が避難指示解除準備区域となった福島県楢葉町。指定解除から4年半がたち、現在の居住者は約3900人に増えた。住民登録者と比べた「帰還率」は6割近くに達している。学校や商業施設も次々と整備され、日常を取り戻しつつある。

 多難な「共同体」づくり
 しかし、町は新たな課題に直面している。
 町内には復興作業員をはじめ新しい住民も多数暮らしている。工業団地が整備され、そこに進出してきた企業には町外からの通勤者も多い。それらの人たちと元からの住民の交流は進んでいない。
 震災前からの人間関係も、帰還とともに薄れた。避難先で仮設住宅に入っていた頃まではかつての近所付き合いが保たれていたが、異なる地区の住民が集まる災害公営住宅(復興住宅)へ移った人も少なくない。高齢者の多い帰還住民は孤立しがちとなった。
 復興を支援する一般社団法人「ならはみらい」は、避難中の住民に帰還準備のための町内ツアーなどを企画してきた。業務部係長の平山将士さん(45)は「一番つらいのは、復興住宅に移ったお年寄りから『今よりも仮設にいた頃の方がまだよかった』と言われる時です」と話す。
 新しい住民を地域の活動に巻き込まなければ、いずれ共同体を維持できなくなることは目に見えている。
 今年度、「ならはみらい」が事務局となり、住民と企業による新たなコミュニティーづくりを話し合う懇話会が設立された。
 被災地全体を見回すと、復興の格差が目立つ。
 同じ福島でも、帰還が思うように進んでいない自治体がある。原発が立地する双葉町は、今月やっと居住地区ではない一部の避難指示が解除されたばかりだ。
 岩手、宮城の津波被災地は復興が進んでいるかに見える。だが、コミュニティーづくりという課題は共通している。元々人口が減っているうえ、集団移転や土地区画整理によるまちづくりが長期化し、現地再建をあきらめる住民が相次いだ。そのため、震災前の人間関係が失われた地域が各地にある。
 津波で700人以上が犠牲になった宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区はかつて漁師町として栄えたまちだ。大規模なかさ上げ工事で新興住宅街に生まれ変わった。
 まちの現地再建を進めた市と、内陸への移転を望む住民が対立し、復興計画は二転三転した。復興住宅463戸などが整備され、「まちびらき」にこぎつけたのは昨年5月だ。
 その間に戻らないことを決めた住民も多く、市は当初の計画人口5500人を2100人に修正した。だが、市有地の分譲などを進めたところ、仙台に近い地の利もあって子育て世代が大勢流入した。

 地域への関わりがカギ
 閖上の出身で、津波により両親を亡くした格井直光さん(61)は地元のまちづくり団体の代表を務める。
 各地に散り散りとなった住民のため、芋煮会を催したり、住民の近況を情報紙で伝えたりしてきた。閖上を訪れる人を相手に、震災の語り部活動も続けている。
 昨年12月、地元に新設された小中一貫校に招かれ、地区の歴史について話す機会があった。今の子どもたちの多くは閖上の生まれではない。その生徒たちから「閖上が好きになった」と感謝の言葉を返された。
 格井さんは、旧住民と新住民が一つにまとまるには、まちの求心力となる何かが必要だと感じてきた。地区の歴史を語り継ぐことが、その「何か」になりうるのではないかと思うようになった。
 家が建ち、人が集まっただけでは本当の復興とは言えないだろう。外から来た新しい住民と元からの住民をつなぐまちづくりが必要だ。また、そこに住まなくても、まちに足を運び、交流することが地域を活性化する。

 9回目の「3・11」。復興に関わり続ける思いを新たにしたい。

 
(主張)3・11から9年 危機に強い日本をつくれ
                            
産経新聞2020年3月11日

 東日本大震災から、9年となった。
 大津波は広く東日本の太平洋岸を襲い、死者・行方不明者は1万8千人を超える。「3・11」は鎮魂の日である。国民一人一人が犠牲者の霊を慰め、遺族の悲しみに思いを寄せたい。
 政府主催の追悼式は中止となった。中国・武漢発の新型コロナウイルスの感染拡大を押さえ込む戦いのさなかであり、やむを得まい。各人が心よりの冥福を祈りたい。
 JR常磐線が14日に全線で運転を再開する。復旧・復興は進んでいるが、それでも道半ばである。全国で約4万8千人が、いまだに避難生活を続けている。9年たってなお、この現状を直視することも忘れてはならない。
 大震災で日本は、災害への備えの重要性を学んだはずだ。実践的な訓練こそが被害を軽減する。
 陸上自衛隊は「3・11」の際、被災地へ速やかに駆けつけて救援に当たった。平成20年10、11月に陸自が宮城、岩手両県や警察、消防などと津波を想定した「みちのくアラート2008」という実動演習をしていたことが奏功した。計画を練るだけでなく、部隊が現場への道筋や活動拠点を確認していたことが大きかった。
 役に立たなかった訓練もある。大震災5カ月前の22年10月、当時の菅直人内閣は浜岡原発(静岡県)が「全電源喪失」するシナリオで原子力総合防災訓練を実施した。福島第1原発事故と似た想定だったが、菅内閣の対応は本番で混乱を極めた。
 菅氏は大震災後の国会で、前年の訓練内容を「詳しい内容は記憶していない」と答弁した。首相官邸でも行われた訓練動画が残っている。首相が用意された紙を読み上げる形ばかりの訓練だった。
 このような形式的な訓練は百害あって一利なしである。困難な状況設定をあえて投げ入れ、それに対処すべく各人が動き、知恵を絞る訓練こそ必要である。
 教訓は生かされているか。
 政府は大規模な「新型インフルエンザ等対策訓練」を毎年行ってきた。これも形ばかりの訓練だったのではないか。今回のウイルス禍で、政府の対応は後手に回った。検査態勢の拡充やマスク供給のもたつきを見れば、そう指摘せざるを得ない。危機に強い日本をつくるためにも、3・11の記憶を新たにすべきである。

 
(社説)3・11から9年 千年先の郷土を守る
                                             東京新聞2020年3月11日

 牡鹿半島の付け根に位置する宮城県女川町は、東北電力女川原発のある町です。
 リアス海岸の岬を巡るとあちこちで、高さ2メートル、幅1メートルほどの平たい石碑に出合います。「女川いのちの石碑」です。
 建てているのは、女川中学校卒業生の有志でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」。今月1日、18基目ができました。
 あの日女川町は、最大14.8メートルの津波に襲われました。
 人口約1万人のうち、死者・行方不明者は827人に上り、全住宅の9割に当たる約3900棟が被害に遭いました。
 東日本大震災の被災市町村の中で、最も被災率の高かった町だと言われています。

 ◆大震災を記録に残す
 震災翌月、当時の女川第一中(2013年に女川第二中と統合して女川中)に入学した一年生は、社会科の授業で「ふるさとのために何ができるか」を話し合いました。そして「震災を記録に残す」活動の実践に乗り出すことを決めたのです。
 町内に21ある浜の集落すべてに津波は押し寄せました。
 それぞれの津波到達点に石碑を建てておこう、ふるさとの風景に震災の記憶を刻みつけ、1000年先まで命を守る避難の目安にしてもらおう-。
 街頭やSNSで寄付を募ると、半年で目標額の1000万円が集まりました。
 石碑には、警告が刻まれます。
  <ここは、津波が到達した地点なので、絶対に移動させないでください。もし、大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください。逃げない人がいても、無理矢理にでも連れ出してください。家に戻ろうとしている人がいれば、絶対に引き止めてください>

 ◆津波わずかに高ければ
 末尾には、卒業生から未来へ贈るメッセージも添えました。
 <今、女川町は、どうなっていますか? 悲しみで涙を流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り、そして信じています>と。
 第1号は13年11月、女川浜を見下ろす母校の校庭に建ちました。今年中には21基目が完成し、プロジェクトは完了する予定です。
 そんな女川町でも、原発再稼働の手続きが最終段階を迎えています。
 女川原発は、震源に最も近い原発です。福島同様、激しい揺れと津波に襲われました。到達点よりわずかに高い所にあったため、辛うじて難を逃れたにすぎません。
 原発の敷地は、大地震の影響で1メートルも沈下しました。原子炉建屋の壁からは、1030カ所ものひび割れが見つかりました。
 震災で、満身創痍(そうい)にされた原発です。原子力規制委員会の審査を終えて、規制基準に「適合」と判断されはしたものの、とても安心とは言えません。規制委も安全だとは言いません。
 「あと30センチ津波が高ければ、福島と同じになったと思います。原発に絶対の安全はなく、ふるさと喪失のリスクが付きまとう。福島の教訓です。再稼働を許すとすれば、これからも多大なリスクを、しょっていかねばならんのです。住民の命を預かるものとして、そんなことはできません」
 原発から30キロ圏内にある宮城県美里町の相沢清一町長は、再稼働にきっぱりと「ノー」を突きつけます。
「目の前に、現実の課題が山積みです。風化だなんてとんでもない。(放射性物質をかぶった)稲わらひとつ、処分できない。避難計画をつくれと言われても、なかなか答えが見つからない。高齢者はどうなるか? 複合災害が起こったときは? 途中で風向きが変わったら? 隣町から逃げて来る人たちは?…。(国や東北電力は)何をそう急ぐのか」
 東北の被災原発を再稼働に導いて、「復興原発」にしたいのか。原発は安全です、ちゃんと制御(アンダー・コントロール)できていますと、五輪を前に世界へアピールしたいのか。
 いずれにしても、原発のある風景や暮らしの中に刻み込まれた震災の痕跡を、見過ごすことはできません。風化を許してはいけません。
 その一つ一つが、未来ではなく、今を生きる私たちへの「警告」になるはずだから。

 ◆ふるさとを奪わないで
 女川いのちの石碑には、震災直後に生徒たちが詠んだ句を一句ずつ刻んでいます。
 原発に近い塚浜の公園に立つ13番目の石碑には、こんな句が添えられました。
 <故郷を 奪わないでと 手を伸ばす>
 この痛切な願い、忘れるわけにはいきません。


 (社説) 東日本大震災9年 普段からの備えが大切だ

                                                茨城新聞 2020年3月11日

 死者、行方不明者を合わせて18千人を超えた東日本大震災から9年を迎えた。県内でも震災との因果関係が認められる「震災関連死」を合わせて66人が犠牲となり、700人を超える人が重軽傷を負い、千棟を超える住宅が全半壊するなど未曽有の被害を出した。福島第1原発事故によっていまなお県内で避難生活を送る福島県民は3200人に上る。
 廃炉作業が行われている同原発は、汚染水を処理した水の処分方法も決まらず、原子炉内で溶け落ちた核燃料(燃料デブリ)をどう処分するかも見通せない状況だ。
年を経てもなお、大震災の傷痕は癒えていない。そんな中、福島県内で不通が続いていたJR常磐線富岡-浪江間の運行が14日に再開し、全線が復旧するという明るい話題もある。「3・11」の惨禍から年がたつのを機に、あらためて教訓を生かして防災・減災への意識を高め、高い確率で発生することが予測される南海トラフ巨大地震などに備えたい。
 総延長194キロの海岸線を有する本県にとって、防潮堤は県民の命を守る重要インフラだ。県は津波対策強化事業として防潮堤のかさ上げ工事などを進めている。海岸や河川、港湾、漁港の後背地など、住宅や幹線道路を控えた特に緊急性の高い県内33カ所で整備を計画。本年度内に約割の26カ所で完成予定となっている。
 
 防潮堤の整備は、沿岸の形状などの自然条件や大震災時の津波の浸水範囲を基に、発生頻度が比較的高く大きな被害をもたらす津波(L1津波)の襲来を想定し、堤防の高さを約メートルに設定している。東日本大震災の復興期間の最終年度となる2020年度末を目標に、整備が進められている。
 ほかにも県は、災害時の救援活動や物資輸送に欠かせない緊急輸送道路の機能強化、老朽化が進む橋の架け替えや耐震補強などにも取り組んでいる。
 避難所や仮設住宅の改善も課題だ。大震災時には避難所で体調を崩す高齢者らが少なくなかった。特に持病のある人や障害のある人にとって避難所での生活は苦痛を強いられることが多い。トイレや感染症対策など衛生面の向上、プライバシーの確保、雑魚寝生活の改善、冷暖房や授乳室、更衣室の整備など避難所の質の向上は急務だ。ペットを連れた人も安心して避難できるようにしたい。
 仮設住宅では近年、移動式仮設住宅が広がりを見せている。災害時に要請から短時間で被災地に提供が可能な「動く家」だ。本県では小美玉市野田に先月、移動式仮設住宅の拠点となる施設「小美玉研修所」が設置された。平常時はホテルや研修所として使用し、災害時は短時間で被災地に建物をトレーラーで移送するという。
 大震災後は生活物資が行き届かず、ガソリンもなかなか手に入らなかった。日頃から小まめに給油し、一定程度の食料を確保しておくなど、いざというときに対応できるだけの備えも心掛けたい。家具などの転倒防止策も大切だ。
 普段から災害に備え、自分の命は自分で守るという意識を持つことが重要だ。命や財産を守るためには住宅の耐震化も欠かせない。地域の防災組織を通じて地域ぐるみで備える必要もある。「自助」と「共助」が減災の要となる。
大地震はいつ、どこで起こるか分からない。記憶を風化させず、日々教訓を生かしたい。