《社説》 週のはじめに考える 福田ドクトリンの理念

2023年11月12日 東京新聞

 日本と東南アジア諸国連合(ASEAN)が交流を始めてから、今年で50年。12月には、東京でASEAN特別首脳会議が開かれます。ウクライナや中東、ミャンマーなどで戦火が絶えない中で迎えた節目に、ぜひ想起したいのが、平和外交の理念をうたい上げた「福田ドクトリン」です。

◆「軍事大国にならない」

 「わが国は平和に徹し、軍事大国にはなりません」。1977年8月、フィリピンの首都マニラのホテルで、福田赳夫首相=当時=が、マルコス比大統領=当時=ら聴衆に語りかけました。

 スピーチはこの後、「心と心のふれあう相互信頼関係を築く」「対等な協力者の立場で、平和と繁栄に寄与する」と続きました。冒頭の一文と合わせた3本柱が、対アジア外交の原則になったのです。

 演説原稿を書いた元駐ロシア大使の枝村純郎氏は、「何度も拍手がわいたが、非軍事大国化のくだりへの拍手が最も大きかった」と著書で述懐。福田氏の回顧録によれば、「演説に感動したというタイのプミポン国王=当時=から、タマサート大(学長は国王)の名誉学位を贈られた」そうです。

 本紙など日本のマスコミも盛り上がり、演説内容を巡って事前の報道合戦が過熱。「平和」「非軍事」「ふれあい」といった理想と希望にあふれた言葉が、政権から発せられることへの関心は高かったと言えそうです。

 福田ドクトリンの誕生には、時代の要請がありました。一つは、第2次大戦の日本の戦後処理。70年代には、その多くに道筋がつきました。72年には沖縄返還と日中国交正常化が実現。東南アジアへの戦後賠償も軌道に乗り、日本外交は「次に何をなすべきか」という空白期でした。

 73年の「日本ASEAN合成ゴムフォーラム」で交流が始まったASEANは当初、日本に冷淡でした。敗戦で一度は去った日本人が、経済活動などで「大きな顔をして戻って来た」(枝村氏)ことへの反日感情があったからです。74年に田中角栄首相=当時=がインドネシアを訪問した際には、首都ジャカルタで暴動が発生。戦争と占領の影は、戦後30年弱を経ても、色濃く残っていました。

 この時期、米国がベトナム戦争から撤退し、東南アジアでの存在感を減じていく中、ASEAN各国に「日本は再軍備するのでは」との懸念もあったといいます。

 そう指摘する名古屋大の井原伸浩准教授(政治学、アジア研究)によると、福田氏は自民党内で右派、タカ派と言われたものの、「虎や狼(オオカミ)ではなく、ハリネズミぐらい」、つまり「必要最小限度の防衛力整備にとどめるべきだ」という考え方だったそうです。ASEANの懸念を払拭すべく「軍事大国化の否定」という第1原則が盛り込まれたのは、福田氏自身の判断だったといいます。

◆かすんできた平和路線

 この理念に沿った形で、武器輸出は実質的に禁じられ、歴代政権は、集団的自衛権は「保持しているが行使できない」との立場を守ってきました。防衛関連費の対国民・国内総生産(GNP・GDP)比も、マニラ演説のあった77年に当初予算ベースで0・88%、80年代の一時期などを除き、昨年度まで1%未満で推移してきました。

 しかし、安倍晋三政権が2014年、集団的自衛権の行使を閣議決定で容認。岸田文雄政権は今、殺傷能力のある武器輸出解禁を目指す与党協議を進行中です。防衛関連費大幅増の政府方針で、本年度の対GDP比は1%を超え、4年後の27年度には2%を目指します。

 「軍拡」に前のめりに見える岸田首相は今月、6億円相当の沿岸監視レーダー供与で、フェルディナンド・マルコス比大統領(福田ドクトリン当時の大統領の長男)と合意しました。「同志国」とみなす国に防衛装備品などを援助する「政府安全保障能力強化支援」(OSA)の初適用。マニラで東南アジアに向け平和主義を宣言した福田ドクトリンがかすみます。

◆緊張の緩和に貢献せよ

ASEAN各国に近い南シナ海や台湾海峡、インド洋で、米中の覇権争いが顕在化。ASEAN内も、米国寄りと中国寄りに割れています。

 日本の役割は、両陣営の緊張緩和に貢献することではないか。特に、日中関係の再生はカギで、岸田首相と習近平国家主席が頻繁に話し合えるような状況を作り出すべきでしょう。名古屋学院大の鈴木隆教授(国際政治学)が言うように、福田ドクトリンにある「平和」「対等」といった明白な理念のある外交が求められています。