(社説)憲法75年の年明けに データの大海で人権を守る
                               2022年1月1日 朝日新聞

  米国のグーグル、アップル、フェイスブック(現メタ)、アマゾンはGAFA(ガーファ)と総称される巨大IT企業だ。検索や商品の売買、SNSなどの場をネット上に設けていることから、プラットフォーマーと呼ばれる。
 いま、これらと無縁の暮らしをしている人はどれだけいるだろうか。その影響力の大きさから、主権国家にも比すべき「新たな統治者」と呼ばれることもある。
 現実の国家の多くが、憲法によって権力の行使を制約され、個人の基本的人権を保障しているのと同じように、巨大IT企業の行動にも、一定の枠をはめ、個人を守るべきだという議論がなされている。

 ■巨大IT企業VS.国家
 日本国憲法の施行75年を迎える今年、データの大海であるデジタル空間のありようをめぐる議論を、より深めたい。
 フェイスブックは昨年、社名を変更し、今後は「メタバース」事業に力を入れると発表した。メタバースとは、ネット上の仮想空間で、人々は自分の分身である「アバター」を参加させ、離れたところにいる人どうしが会話をしたり、買い物したりするのだという。同社は、将来は数十億人が訪れる場になるとしている。
 憲法学者でAI(人工知能)にも通じる山本龍彦慶応大教授は、この構想について、国家をしのぎかねないプラットフォーマーの力を「リアルに感じた」と語る。
 「我々の生活が仮想空間に移る。そこでのルールはザッカーバーグ(最高経営責任者)が作る。彼はいわば立法者。民主的手続きを経ていない『法』が我々を拘束することになる。今までの民間権力とは次元が違う」
 昨年初め、暴力をあおるトランプ米前大統領のアカウントをフェイスブックとツイッターが凍結した一件も、その当否はともかく、プラットフォーマーが場合によっては表現の自由、ひいては民主主義と衝突する危うさを浮き彫りにした。
 その力の源泉は、ネットを通じ、世界中から手に入れている膨大な量の個人情報である。それをもとにしたターゲティング広告や、一人ひとりの「信用力」による格付けなどは、個人の自由意思を左右し、その人生に大きな影響を与えかねない。

 ■「個人の尊重」軸に
 こうした危うさにいち早く対応しているのが、個人情報の保護を基本的人権と位置づけている欧州連合(EU)だ。18年に施行した「一般データ保護規則」は、21世紀の「人権宣言」とも呼ばれる。
 ある企業が自分のどんな個人情報を持っているかを知る権利、その情報を別の企業に移すことができる「データポータビリティー権」などが定められた。
 プラットフォーマーが自動処理で人物像を予測するプロファイリングに対して異議を唱える権利や、ネット上の個人情報を消すことを求める「忘れられる権利」も盛り込まれている。
 伝統的に表現の自由を重視してきた米国でも、規制への流れが強まっている。
 日本は追いついていない。
 一昨年暮れに閣議決定されたデジタル社会の実現に向けた「基本方針」には、「個人が自分の情報を主体的にコントロールできるようにすること等により、公平で倫理的なデジタル社会を目指す」とうたわれた。
 しかし、昨年5月に成立したデジタル改革関連法には盛り込まれなかった。「一般的な権利として明記することは適切でない」というのが政府の説明だ。
 日本国憲法の核心とされる13条は「個人の尊重」を掲げ、個人が自分に関する情報を自分で管理する権利もここから導き出される。長年の議論が実っていないのがもどかしい。

 ■力ある者の抑制均衡
 昨年暮れの衆院憲法審査会では、個人情報の不適切利用や、ネット上の情報操作によって民主主義がゆがめられる危険性などが指摘された。個人情報保護の憲法上の位置づけを明確にすべし、データに関する基本原則を憲法にうたうべし、といった意見も出された。
 憲法に書かなくても、個人情報保護法に「自己情報コントロール権」を明示すればいいという考え方もある。
 いずれにせよ、国民の「知る権利」とのバランスに留意しつつ、データをめぐる自由と権利を整えていく必要がある。
 むろん営利企業としてのプラットフォーマーにも自由は認められなければならず、行き過ぎた規制は避けるべきだろう。多国籍に展開する巨大企業に対峙(たいじ)するには国際的な連携も必要になる。
 一人ひとりの人権を妨げる危うさは、国家にこそ潜在することも忘れるわけにはいかない。国家がデータを集中、独占すればSF的なディストピアが出現する。
 何より個人の尊重に軸足を置き、力ある者らの抑制と均衡を探っていかなければならない

 (社説)再生’22 民主政治と市民社会 つなぎ合う力が試される
                               2022年1月1日 毎日新聞

 民主主義への逆風が強まる中、2022年を迎えた。人々から自由を奪う新型コロナウイルスの感染収束は見通せない。米国と中国、ロシアの対立で、国際情勢はきな臭さを増している。
 冷戦終結直後に広がった「世界はいずれ民主化する」との楽観論は影を潜めた。30年後の今、浮上しているのは、専制的な権威主義が拡大する現状への懸念である。
 スウェーデンの「民主主義・選挙支援国際研究所」によれば、過去5年間で権威主義的な傾向を強めた国の数は民主化した国の約3倍に上った。昨夏に米軍が撤退したアフガニスタンは混乱の長期化で人道危機に直面し、ミャンマーでは国軍による市民弾圧が続く。
 深刻なのは、民主国家でも権威主義的な政治が幅を利かせていることだ。トルコでは大統領が独裁的な権力を振るい、ハンガリーでは性的少数者らへの締め付けが強まっている。

「炭鉱のカナリア」沖縄
 政治の最も重要な役割は人々の安全と暮らしを守ることである。
 しかし、各国政府は感染症の流行や気候危機など地球規模の問題への対応に苦慮し、経済のグローバル化で拡大した格差を是正する有効な処方箋を示せていない。
 その結果、民主国家を中心に政治への不信や不満が強まっている。一方、徹底した行動管理で感染を抑制した共産党一党独裁の中国は体制の「優位性」を誇示する。
 日本の状況はどうか。
 民主政治とは本来、為政者が少数者の意見にも耳を傾け、議論を通じて合意を作り上げる営みだ。
 だが、安倍晋三・菅義偉両政権下で異論を排除する動きが強まり、国民の分断が深まった。「政治とカネ」の不祥事が後を絶たず、コロナ対策も迷走した。
 国際的な世論調査によると、日本国民の政府に対する信頼度はコロナ前の43%から31%に急落した。「民主主義の危機」を語る岸田文雄首相の責任は重い。
 「数の力」にものを言わせる政治と、市民との距離が広がっている。象徴的なのが、今年5月に本土復帰50年を迎える沖縄の米軍基地問題である。
 19年の県民投票では、普天間飛行場移設のための辺野古埋め立てへの反対が7割に上った。しかし、政府は「辺野古が唯一の解決策」との姿勢を崩さない。地元の民意が置き去りにされたまま、現場への土砂投入が続く。
 台湾を巡って米中対立が激化すれば、在日米軍施設の7割が集中する沖縄は、その最前線に立たされかねない。
 日本の安全保障と沖縄の人々の暮らし、国と地方――。立場や意見が異なる中、政治はもつれた糸をほぐし、両立への「解」を見つける努力を尽くしてはいない。
 「基地あるがゆえに沖縄は民主主義、人権、環境の問題に立ち向かってきた」。半世紀前の復帰時、手製の「日の丸」を振った玉城デニー知事が語る。
 「炭鉱のカナリア」という言葉がある。坑内に迫る危険を小鳥が炭鉱夫に知らせたことに由来する。「沖縄は日本の民主主義のカナリアだ」。沖縄国際大の前泊博盛教授はそう形容する。
 
 対話と参加求める動き
 現在の民主政治の土台は、有権者が選挙で自らの代表を選ぶ議会である。だが、議員を介する分、人々の声が十分に政治に反映されにくいという問題も抱えている。
 政治思想家のハンナ・アーレントは世界を「テーブル」に例えた。テーブルを介して人々が対話し、結びつく。人々と政治を直結させるテーブルをどう作り出すか。
 注目されるのは、市民による政治参加の動きが近年、活発になっていることだ。
 フランスでは、くじ引きで選ばれた国民が気候政策を討議し、149本の提言をまとめた。スペイン発祥のオンラインによる参加型民主主義「デシディム」は世界各地で取り入れられている。
 日本でも市民がITで社会課題を解決する「シビックテック」が注目を集め、沖縄ではコロナや地元議会の関連情報の発信が進む。予算編成に市民が関与する仕組みも三重県などで導入されている。
 市民参加の活動に詳しい吉田徹・同志社大教授は「代議制民主主義の足りないところを補完し合う関係が望ましい」と指摘する。
 夏には参院選がある。人々が声を上げ、政治がその多様な意見を吸い上げる。市民と政治をつなぐ民主主義の力が試されている。

 (社説)災厄越え次の一歩踏み出そう
                               2022年1月1日 読売新聞

 ◆「平和の方法」と行動が問われる◆
 産業が成熟して金融資本主義の時代になり、経済活動の主軸がマネー取得の最大化にあるかのような行き過ぎから、さまざまな 歪 みが生じてきた。
 中国の軍事大国化によって国際秩序が動揺し、国の安全が脅かされる時代にもなった。
 経済社会の変調と軍事的脅威の高まりという二つの変動が、同時に進行しつつある。
 市場経済を健全な軌道に戻して活性化させ、平和で安定した国民生活を築くという二つの難題に立ち向かわなければならない。新しい発想と粘り強い努力が必要だ。その一歩を踏み出す年である。
 もちろん、新型コロナウイルスの感染抑止が当面の最優先課題であることに変わりはない。新しい変異株オミクロン株が広がりつつある。医療体制の充実に全力で取り組むことが急務だ。
 しかし、なすべき対策は、感染抑止だけではない。この冬を乗り切り、そのうえで、コロナ禍で傷んだ社会生活の修復に取り掛からなければならない。

 ◆給付から雇用へ転換を
 国民生活にとって大事なものの第一は、雇用である。働いて所得を稼ぎ、消費する。その需要に応える生産活動が活発化して経済が成長する。成長の果実はまた所得を向上させ、更に成長を促す。
 問題は、そうした成長と分配の循環に、近年、変調が生じていることだ。グローバル化の進展で、先進工業国の多くの企業が生産拠点を低賃金の途上国に移し、収益最大化を図るようになった。
 世界的な低金利政策によって金融活動は活発化し、デジタル社会化はIT企業などに空前の巨富をもたらした。サービス経済化によって働き方にも変化が生じ、多様な雇用形態が増えた。
 そこに襲いかかったのがコロナ禍だった。せっかくこの10年で約400万人も就業者が増えたのに、多くが低所得の非正規やパートの従業員で、外食産業などが失業や所得の激減に見舞われた。
 救済策として給付金の支給が必要とされたのは当然とはいえ、給付の繰り返しでは財政は破綻し、経済や社会生活の再生もない。
 救済のための一時金給付型支援から、新しい社会作りをめざした投資型へ、転換すべき段階にあることは明らかだろう。
 金融資本主義的な経済活動に伴って中間層の所得の伸びが縮小し、社会の不安定化を招いていることに、経済協力開発機構(OECD)も警鐘を鳴らしている。
 岸田首相の「新しい資本主義」の提唱は、こうした経済の現状に対する懸念の反映とみえる。
 生産活動を活性化させる投資の対象は、たくさんある。地球環境を守るための技術開発、災害防止など国土の保全、人作りの教育、医学・工学などの先端的研究。
 マネー優先の投機ではなく産業振興のための投資へ、短期的利益ではなく長期的視点に立った経済活動へ、日本が率先して転換に取り組み、国際協調体制作りを促していくべきだろう。
 国の財政は巨額の赤字だが、企業の内部留保など民間資金はたっぷり眠っている。これを企業、大学などの研究機関に対する投資に生かし、新しい技術開発を通じて雇用の創出につなげるべきだ。

 ◆カギはイノベーション
 カギはイノベーション(技術革新)にある。イノベーションはふつう「創造的破壊」と解されているが、提唱したシュンぺーターが強調したのは「新結合」である(「経済発展の理論」)。
 生産手段の新しい結合を通じて、新しい生産方法を創出すること。創造的な企業家たちの、そうした努力が新しい産業を生み、経済の発展をもたらす。
 町工場の優れた技術が小惑星探査機「はやぶさ2」を支えたのに続き、いま、宇宙に散乱するゴミを回収して、宇宙の安全を守り、ビジネスとしても成功させようという試みが進められている。
 日本の強みを生かす努力と、それを継承し発展させる人材を育成することが重要だ。
 ただ同時に、技術開発が世界の覇権争いの舞台になっている現実も、見落としてはならない。日本の技術や研究者らの中国への流出が、大きな問題になっている。
 しかも、流出だけではなく、それが中国の軍事技術の開発や軍事力の強化に使われ、日本の安全を脅かしているのではないか、という懸念が、指摘されている。
 通信技術がサイバー攻撃に悪用され、企業活動や社会生活の混乱を生む事態も相次いでいる。徳島県の町立病院など各地の病院で患者のカルテや画像データが盗まれ、身代金を要求されて大混乱となった事件が起きている。
 国家の仕業か犯罪集団の行動か判然としないが、経済活動と、国家や社会の安全を脅かす行為が複合し、「経済安全保障」の観点からの対策が急務となっている。
 国際変動の最大の要因が、中国の台頭にあることは明らかだ。世界第2の経済大国に成長した中国は、習近平政権の登場とともに、軍事大国化への行動を加速させている。
 南シナ海の人工島建設にとどまらず、東シナ海の尖閣諸島周辺での領海侵入など、軍事的圧力の強化を進めている。海軍力、空軍力、ミサイルの増強などで、米国のアジアでの前方展開戦力をしのぐ状況となった。

 ◆緊張高まるアジア情勢
 習近平国家主席はまた、「中華民族の偉大な復興」を掲げ、香港の民主派弾圧と強権による中国化を断行した。
 1997年の香港返還にあたり英国と交わした「50年間は一国二制度を維持する」という共同文書の、明らかな違反である。
 公海や他国領域への一方的な軍事的圧力は、国際秩序の安定を害する。許されるものではない。日米、豪州、インドが「自由で開かれたインド太平洋」に結束し、欧州各国が同調するのも当然だ。
 かつて中国海軍の高官が米軍当局者に、「ハワイを境に米中が太平洋を東西に分割管理する」と語りかけたことがあった。それが冗談ではなかったことを、中国の軍拡路線が示している。

 ◆最前線に立つ日本
 中国が西太平洋の空と海を制し、海上交通路を支配することになったら、日本も他の諸国も、存立の基盤が中国の影響を受けることになってしまう。
 日本は、インド洋からアジア・太平洋に至る国際的緊張の、最前線に立つ形となっている。
 中国も国内にいくつも難題を抱えている。また日本にとって、中国との友好関係を維持することは、日本と地域の安定のために不可欠だ。軍事的緊張への対処と、緊張を緩和する努力が、同時に求められる難しい時代である。
 何もしなければ平和が保たれるなどというのは、危険な幻想である。平和を守るには何が必要か、その「平和の方法」を具体的に考え、行動しなければならない。
 「戦争は、始めた側の人間が『勝てる』と思うから始めるのである」という、軍事史家が引用した言葉(「戦争の未来」所収)は傾聴に値する。相手に「勝てる」という思い違いをさせないことが、最大の防御策となるだろう。
 そのためには、まずは日本自身の防衛努力、そして日米同盟関係の強化によって、もし日本や台湾を含めた地域の安全を脅かす行動に出れば自国にとって重大な損失となることを、相手にしっかり認識させることが重要だ。
 周辺諸国をはじめ世界各地に仲間を増やす外交努力も欠かせない。国際秩序を守り、平和を守る日本の決意を広く国際社会に訴え、理解と信頼を確保するよう、対外的な発信力が求められる。
 外交では、「言うべきことを言う」のはもちろん大事だが、「言うべき時に」言わなければ、沈黙と同じことになってしまう。外交はタイミングと、それを判断するセンス(感覚)が必要だ。
 国際社会では、何よりも国力が大事だ。経済力が豊かで政治的に安定した大国の筋の通った主張であって初めて、影響力を持つ。

 ◆参院選が正念場だ
 国力のもととなる経済の立て直しと政治の安定こそ、岸田内閣が取り組むべき課題である。「新しい資本主義」への転換や「聞く力」を強調する姿勢には国民の共感が寄せられているが、真価が問われるのはこれからだ。
 何を、どう変えるのか、首相自身が率直に訴えなければ、慎重さは優柔不断に、経済政策は看板倒れと、評価が逆転しかねない。
 夏の参院選までは無難に、と考えているとしたら逆だ。衆院と違って参院は、与野党の議席差が少なく、32の1人区の動向次第で与野党伯仲や逆転が生じやすい。法案成立が困難になり、「決められない政治」の再現となる。
 それを防ぐため、新しい連立や政界再編という事態に発展するかもしれない。参院選は、日本政治の行方を左右する波乱の芽である。岸田政権にとって、これからの半年が正念場なのだ。
 目指す目標と具体策をはっきり掲げ、打って出ることによって、難局乗り切りの活路を開かなければならない。

 (社説)年のはじめに考える 「ほどほど」という叡智
                              2022年1月1日 東京新聞


 年が改まって最初の社説ののっけから横文字で恐縮なのですが、「SDGs」という言葉、最近は猫もしゃくしも…というと何ですが、本当によく目にも耳にもするようになりましたね。新語・流行語大賞の候補にも挙がっていたほどで、わが国では昨年、一気に広がった感があります。今年は恐らく、もっとでしょう。

 ご案内の通り、Sustainable Development Goalsの略語で、「持続可能な開発目標」と訳されることが多いようです。経済、社会、環境の領域を横断し、世界が抱える諸問題を、ほぼ網羅するような17のゴール(目標)が掲げられています。2025年の国連サミットで採択されたのですが、「持続可能な開発」という概念自体は、環境保全の観点から、既に1980年代には登場していたといいますから、新来の言葉というわけでもないようです。ただ、サステナブルの訳語「持続可能」は、何というか、少しこなれない日本語という気がしないでもありません。

◆多すぎても少なすぎても
 SDGsで貧困や健康、教育、ジェンダー平等などと並んで重要テーマといえるのが、やはり環境です。「気候変動に具体的な対策を」は目標の一つ。昨年の国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP26)では、産業革命前からの世界の平均気温上昇を1.5度までに抑えることで各国が合意しました。しかし現行の脱炭素政策などでは達成は無理。各国は今年、30年に向けて策を練り直さなくてはなりません。
 とにかく温室効果ガスを減らすことに世界中が四苦八苦しているわけですが、実は、逆にあんまり少なすぎても塩梅(あんばい)が悪い。もし、まったく温室効果ガスがなかったら、太陽光がもたらす熱を閉じ込めておけなくなるため、地球の平均気温はマイナス19度にまで下がってしまうのだとか。多すぎても少なすぎてもだめ。ほどほど、頃合いが大事なようです。
 温暖化の影響は既にさまざまに表れていますが、このごろ毎年のように伝えられるいろんな魚の不漁もその一つとみられています。昨年も同様でしたが、一つ、吉報もありました。中西部太平洋まぐろ類委員会(WCPFC)が、太平洋クロマグロの漁獲枠拡大に合意したのです。今の漁獲規制が始まって以来、初の増枠。資源量、つまりはクロマグロの数が回復してきたおかげだといいます。捕りすぎず、ほどほどに捕るなら、捕り続けられる。そう教える事例でありましょう。
 思い出したのは、かなり前、ある高校の文化祭でたまたま見た一つの道具。]形の切り欠きがある木片で、確か、三重県・鳥羽、志摩辺りの海女さんが素潜り漁の中で使う、との説明書きがありました。今、調べてみれば、「寸棒」などと呼ばれる道具のようです。切り欠き部分の長辺は10.6センチ。みつけたアワビをそこに当てがい、収まってしまうような小さいものは海に戻すわけです。
 サイズは、120年も前に県漁業取締規則に定められた「鮑(あわび) 長3寸5分以下」は採捕禁止というルールに基づいています。末永く海の恵みを享受するためには、捕りすぎないという叡智(えいち)。寸棒は、自然との上手な付き合い方を象徴する道具のようにも思えます。
 温暖化をはじめ、自然や環境に種々問題が生じているのは、そこかしこで、そうした叡智が失われているということでしょうか。食べすぎ、とりすぎ、使いすぎ…。大方の問題の根っこは、私たちの生き方の中に染み込んだ「過剰」に帰するような気もしてきます。

◆<過剰の中の無>とは?
 古代ギリシャ・デルフォイの神殿の入り口には、かの有名な<汝(なんじ)自身を知れ>などと並んで、<過剰の中の無>という意味深な格言が刻まれていたといいます。多くを求めすぎれば何も手に入らぬ、という謂(いい)でしょうか。
 時に自然を改変し、自然からさまざまなものをいただくことなしに人間の社会は成り立ちません。しかし、それを乱暴、過剰に、ではなく、いい塩梅で、うまくさじ加減をしながらやるならば、自然もそれに応えてくれて、結果、人間と自然のよい関係も長続きさせることができる。「持続可能な開発」とは、結局、そういうことかとも思います。
 ざっくり「ほどほどのススメ」ぐらいに理解しておいても、あながち見当違いではないのかもしれません