(記者の目)コロナ専門家の五輪提言 科学的助言者の独立守って
                             毎日新聞  2021年9月9日


 日に全日程が終了した東京オリンピック・パラリンピックは、新型コロナウイルス感染症対策のため異例の原則無観客開催だった。政府・与党は無観客を求める専門家の提言公表に難色を示したが、感染拡大を受けて対応を余儀なくされた。方針に合わない科学的知見を封殺する動きが繰り返される背景には、科学的助言者の独立性を守るルールの不在がある。
 政府の有識者会議「新型コロナ対策分科会」の尾身茂会長ら医療の専門家有志は618日、政府と大会組織委員会に、五輪による感染拡大リスクの提言を出した。全国各地で人出が増えて対策が緩むと感染拡大や医療逼迫(ひっぱく)のリスクが生じると懸念し、無観客開催などを推奨する内容だ。
 有観客開催を目指す政府・与党は、提言により五輪への批判的な世論が高まるなどと警戒した。分科会に五輪の議論を諮問せず、有志による提出にも難色を示した。自民党国会議員は複数の専門家に提言へ関わらないよう要求し、提出を遅らせるよう求めた。専門家の心理的な負担は重く、提出ギリギリまで提言に加わるか悩む人もいた。
 同様の問題は、昨年の旧専門家会議でも繰り返された。爆発的な感染拡大が起きれば人工呼吸器が足りなくなるとのシミュレーションを提言に盛り込まないよう厚生労働省が要求し、専門家が拒否。同省幹部は専門家に腹を立て「関わりたくない」と吐き捨てるように言った。

厳しい意見に「扱いづらい」
 政府方針を追認するだけの有識者会議と異なり、分科会は厳しい意見が出ることが多く、政府には「扱いづらい」と映る。科学と政治の関係に詳しい流通経済大の尾内隆之教授(政治学)は「政府は結論ありきで、結論に合う評価や助言だけを科学者に期待している」と指摘する。
 科学と政治の関係を整理する試みはこれまでもあった。2011年の東京電力福島第1原発事故を機に議論が高まり、12月に独立行政法人科学技術振興機構が科学と政府の役割と責任に関する10項目の「原則試案」を提言した。一部を紹介する。

「政府は、科学的助言者の活動に政治的介入を加えてはならない」
 「政府は、入手した科学的知見を公正に取り扱わなければならない。(略)政府が入手した科学的助言と相反する政策決定を行う場合には、その根拠について説明することが必要」
 五輪提言の問題に当てはめると実に示唆に富む。機構は早期のルール整備を求めたが、旧民主党政権から自公政権に交代すると機運がしぼんだ。政府は16年閣議決定の科学技術基本計画で「研究者は政治的意図に左右されることなく、独立の立場から科学的な見解を提供できることを、各ステークホルダーが認識することが期待される」と記載するにとどめた。つまり、五輪提言や旧専門家会議提言を巡る政府・与党の干渉を不適切とするような明確なルールが見当たらないのだ。この手の行為は非公式になされるのが常だが、明るみに出ても責任を問えず、歯止めがかからないことになる。
 五輪提言に対し、五輪の中止に触れず「政府にそんたくした」との批判がある。確かに科学者にはどんな状況でも臆することなく科学的助言を述べてほしいとは思う。ただ、独立性を守るルールもなく、激しい政治的プレッシャーに直面する中で、そこまで求められるのか。科学者が率直にリスク評価や対策の提言をできるよう、科学的助言のルール整備を検討すべきだ。

都合悪い助言も取り入れて
 もちろん、ルールさえ作れば新型コロナ対策がうまくいくわけではない。英国は、政府が科学的助言者の独立性を尊重するなどの原則を定めているが、新型コロナでは死者数は日本の8倍近い13万人に上る。平川秀幸・大阪大教授(科学技術社会論)は、台湾など政治のリーダーシップでうまく科学を取り入れた地域で対策が成功しているとみるが、「日本は聞きたい専門家の声だけつまみぐいする政府の姿勢が問題だ。政府に都合の悪い助言も取り入れなければ、感染症対策を誤り国民は被害をこうむる」と指摘する。
 とりわけ菅義偉首相は、学術軽視の傾向があるとも指摘される。昨年、日本学術会議の会員候補6人の任命を拒否し、安全保障関連法への反対が理由と疑われた。いまだに首相から明確な理由の説明はなく、任命は宙に浮いたままだ。菅首相は今月末の自民党総裁選に立候補せず、退陣する。収束しない新型コロナ対策と厳しい経済のかじ取りに唯一の正解はないが、新政権には感染症専門家の意見もよく聞いた上で判断し、十分な説明をお願いしたい。