安全神話、エビデンスで斬る その1 原子力廃絶「自粛せぬ」
                                           毎日新聞  2021年5月2日

 明治学院大学で講演する元京大原子炉実験所の小出裕章さん=東京都港区で2021年4月18日、長谷川直亮撮影

 「原子力の場」に身を置きながら原子力廃絶のための研究を続けてきた。元京都大原子炉実験所(現・複合原子力科学研究所)助教の小出裕章さん(71)は4月18日、移住先の長野県松本市から東京都港区の明治学院大を訪れた。「原発の終わらせ方」をテーマに講演するためだ。約80人を前にこう切り出した。
 「ウイルスがまん延する中、よくおいでくださいました。私は町外れで『仙人生活』をしています。模範的な自粛生活だと思っていますが、感染拡大を防ぐ以上に原子力を止めることはもっと重要だと思っているので、そのための行動は自粛しないと決めています」
この国では現在、二つの緊急事態宣言が発令されている。新型コロナウイルスの感染拡大で4月25日から4都府県に発令された3度目になる緊急事態宣言。もう一つが、東日本大震災での東京電力福島第1原発事故に伴い発令され、いまだ解除されない原子力緊急事態宣言だ。小出さんは雑誌への寄稿や近著で国の新型コロナ対策には原発政策と共通するものがあると指摘する。その一例として政府の旅行需要喚起策「GoToトラベル」を挙げる。
 事業を始めた昨年7月22日の感染者数は795人で、第1波のピーク(694人)を上回った。だが、政府は人の移動が感染拡大につながるエビデンス(根拠)はないとの理由で年末まで継続した。そして福島第1原発事故も――。
 小出さんは「原発は安全だと言って認可してきましたが、そのエビデンスはなかった。願望だけで原発事故は防げない。事実を正確に知ることはいかなる対策を考える時でも一番大切ですが、新型コロナの場合も感染実態を把握するための検査態勢がいまだに十分ではない」と指摘する。
 知人が運営するウェブサイトには2011年6月以降の講演記録が掲載され、実に400回を超す。一貫しているのは「差別や犠牲を強いるのが原子力の本質」という主張だ。過疎地に造られ、被ばく労働は下請け・孫請けの企業が担うからだ。
 15年に定年退職する際は「仙人になりたい」と宣言した。講演を引き受ける回数を減らしながら、この社会から身を引こうとしている。その生き方に迫った。

 安全神話、エビデンスで斬る その2止 「原子力の夢」に挫折
  
                                           毎日新聞  2021年5月2日

「もやい展」で展示された作品「夜ノ森哀歌」の前に立つ小出裕章さん。桜の名所として知られる福島県富岡町夜の森を、画家・金原寿浩さんが描いた=東京都江戸川区で47日、沢田石洋史撮影

 ◆異端者による、1人の戦い
「差別構造」許せない
 東京電力福島第1原発事故の直後は「東日本が壊滅するのではないか」というショックが日本列島を襲った。「あの日」から10年の歳月を重ねた3月11日。元京都大原子炉実験所助教の小出裕章さん(71)は東京・永田町の憲政記念館にいた。個人や団体が集結した「原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟」が主催したオンライン世界会議で「特別講演」を行うためだ。タイトルは「原子力マフィアの犯罪」。
 小出さんは45分間の講演の終盤、原発事故で強制避難中の人、自主的に避難している人らの間で分断があることに懸念を示した。「大切なことは被害者には多様な苦悩があることをお互いに認め合い、助け合って加害者と戦うことだと私は思います」。加害者は「原子力マフィア」と定義し「国を中心とする巨大な権力組織で、民衆の力は弱い。でもこの戦いを続けなければ、次の悲劇があることを覚悟しなければいけません」と訴えた。
小出さんの講演に多くの参加者が耳を傾けた=東京都港区の明治学院大で4月18
日、長谷川直亮撮影

 「東京は嫌ですけれども、必ず行こうと思ってやって来ました」。4月18日にあった明治学院大(東京都港区)での講演ではこう切り出した。場の雰囲気を和ますための冗談だと思ったのだろう、聴衆から笑いが起きた。だが、小出さんは「東京は嫌」なのだ。講演開始のギリギリに到着し、終わるとすぐに自宅に戻る。その理由は「長居したくないから」。それでも演壇に立つのは、片時も挫折を忘れていないからだ。「人生最大の間違いは原子力に夢を抱いたこと。その過ちに落とし前をつけなければならない」

 1949年に東京都台東区で生まれた。育ったのは、上野と浅草の中間。下町風情が大好きな少年だった。だが、中学3年の時に開催された東京オリンピックを機に周囲はコンクリートジャングルへと変貌を遂げ「この街には住みたくない」と思うようになった。
 「原子力の平和利用」が叫ばれていた時代とも重なる。「いずれ化石燃料はなくなる。エネルギーをまかなうには原子力しかない」。68年、開成高から東北大工学部の原子核工学科に進学したのは東京脱出のためでもあった。国は旧7帝大に原発推進を目的とした学科を設置していた。当時、営業運転中の原発は日本原子力発電東海原発(茨城県東海村)の1基だけ。「原子力の場で働き、もっともっと造ろうと思っていた」と振り返る。
 やがて、原発は危険だから過疎地に造るしかない、という「差別構造」に気付く。「電力の恩恵は都会が受け、危険は過疎地に押し付ける。こんな不公平、不公正は許されない」。自分が懸けた夢が間違っていたと確信し、人生を180度転換させたのは「70年10月23日」。この日、建設計画が進む東北電力女川原発(宮城県女川町、石巻市)の反対集会に参加し、原発をやめさせるための研究をすることを決意する。
 戦い方は激しかった。原子炉工学の講義では教授に論争を仕掛けた。「なぜ原発は安全か」と。教授は「万一事故が起きても緊急炉心冷却装置が働いて燃料棒を冷却し続ける。炉心溶融は起こらない」などと説明する。すると小出さんは米国の科学者の論文を引用し、冷却装置が作動しない実例を示す。論争は約35人が出席する講義の間、ずっと続いた。次第に他の学生も論争に参加するようになり、しまいには全員が講義をボイコット。教授は他大学へ移った。
 「大学闘争の時代だったので、授業や試験を潰しにかかることは日常茶飯事。自分にできることをしたまで」
 もう一つ、抵抗したのが「工場管理」の講義だ。「労働者をいかに飼いならして効率よく働かせるかを学ばせようとした。その非人間性が許せない」

京都大原子炉実験所助教時代の小出さん。細長い研究室のついたてには田中正造の大きな写真があった=大阪府熊取町で2011627日、西村剛撮影

 学生運動が下火になった74年に大学院修士課程を修了し、京都大原子炉実験所の助手(現助教)に採用されるまで教授陣と安全論争を続けた。京都大はリベラルな学風で、採用時に身元調査などはなかったという。原子核工学科にとって厄介な存在だったに違いないが、小出さんを研究室に受け入れてくれた教授が1人いた。
 選んだテーマはトリチウム。「原子力を利用する限り、トリチウムは生まれ続け、捕捉できない。長期的には最大の環境汚染源になる」と考えたからだ。原子力廃絶のための研究は自ら認めている通り「異端中の異端」。出世には関心がなかった。
 研究を続けたトリチウムは、福島第1原発の事故後、処理水から取り除けないことが問題になった。政府は処理水を希釈して海洋放出する方針を決めたが、地元の漁業者らの反対は根強い。
 東北大の指導教授とは別に、1人の「恩師」との出会いも小出さんの人生に影響を与えた。当時、東京大原子核研究所の助教授(後に芝浦工業大教授)だった水戸巌さん。女川原発の反対運動をしていた仲間が業務上妨害容疑で逮捕された際、小出さんは裁判で原発の危険性を証言してくれる学者を探していた。友人から紹介されたのが原子核物理学者の水戸さんだった。いち早く原発の危険性を訴え、反原発運動の黎明(れいめい)期を切り開いた人物として知られる。
 69年に、水戸さんは人権団体「救援連絡センター」の設立に妻の喜世子さん(85)らと参画し、大学闘争で逮捕された学生らを支援してきた。小出さんから依頼を受けると手弁当で裁判の証人となり、女川原発反対集会での講演を引き受けた。
 53歳で早世した水戸さんの「お別れ会」で小出さんはこう述べている。
「国にたてついて、たった1人でも、専門的に、また運動的に状況を切り開いていかねばならなかった水戸さんの歩んできた道は誠に険しかったと思います。しかし、水戸さんは一介の学生にすぎなかった私たちに対しても、常に丁寧で思いやりのある態度で接してくれました」
 山好きだった水戸さんは86年末、24歳の双子の息子と冬の北アルプス・剱岳を登山中に遭難。翌年、3人の遺体は谷筋で見つかった。冬山登山なのに3人の靴がテント内に残されていたことが謎として残った。厳冬下、何らかの事情で靴下のままテントを出たことになるが、その理由は分かっていない。小出さんは2月刊行の「原発事故は終わっていない」(毎日新聞出版)にこう記す。
 <私の周辺には、事故を装い殺された疑いが拭い去れない人が5人います。また、自死を装って殺されたのかもしれない人が2人います(抜粋)>
 小出さんは私にその一人一人の名前と死亡時の状況を説明した。そこに、水戸さん親子も含まれていた。
 京都大原子炉実験所での主な仕事は、原子炉の稼働によって生じる、放射性物質を含んだゴミの管理だった。仕事の合間を縫って原発周辺の海水などの測定を続けた。福島第1原発事故の1週間後。東京都台東区で採取された空気を分析した結果、放射性ヨウ素やセシウムを検出したと発表した。上司には事前に「センセーショナルなデータだから」と公表しないよう求められても拒否した。夫の「教え子」の姿を喜世子さんはどう見守ってきたのだろうか。体調不良が続いているとのことで、手紙を寄せてくれた。
「(お別れ会での)小出さんの真情あふれる言葉は荒漠とした砂漠にしみいる一滴のしずくのようでした。小出さんが語ってくださった切々とした思いは私の水戸への思いと重なるものであって、水戸の分身のように思えた瞬間でした。結局、水戸が生きていたら背負うことになった苦労を背負ってくださったのは小出さんを筆頭とする熊取の皆さんでした」
 「熊取の皆さん」とあるのは、大阪府熊取町にある実験所内の反原発グループ「熊取6人組」を指す。
 喜世子さんは夫と息子の死後、思い出につながる場面にふいに出くわすと衝動的に強烈な死の誘惑に引き込まれたと振り返る。そのため長らく海外に移住した。
 今は夫の遺志を継ぎ、原発再稼働に反対する訴訟に参加し、福島の子どもらを支援する活動を続けている。

信州で仙人、道半ば
 小出さんは2015年3月、定年退職した。「仙人になりたい」。長野県松本市郊外に居間と寝室の2部屋しかない家を建て、妻と移り住んだ。子ども2人は独立。住所や電話番号を誰にも知らせず、畑仕事をしながら暮らす。「朝5時に起きてまずは畑に出ます。雑草を抜いたり、種をまいて苗を作ったり。夕方には畑に水やりをしますが、広いので小一時間はかかります」。畑では春から秋にかけて約30種類の野菜を完全無農薬で育てる。6年前に植えたケヤキやシラカシの木が大きくなり、冬はまきストーブの燃料になる。太陽光で発電し、クーラーはない。そもそもなぜ「仙人」に憧れるのか。
 「私は人間嫌いなので人と付き合うのが面倒くさい。精神的にも肉体的にも老いてきているのを自覚しており、消えていく道をつくろうと思っています」
 その一方で、原子力を研究する場に身を置いていた人間として、自分には「特別な責任がある」との考えが消えることはない。原発事故時、4児を抱えて西日本に避難した写真家の田村玲央奈さん(47)と講演後に言葉を交わした際、こう謝罪した。「心からごめんなさい、あんなものを生み出してしまって。子どもたちに謝りたい」

91さようなら原発講演会」で司会を務めた女優・木内みどりさん(左)と講演した小出さん=東京・日比谷公会堂で201391日Ⓒ田村玲央奈

 自分のメッセージに応えて行動に移した一人に、女優の木内みどりさん(19年に69歳で死去)がいる。映画やテレビの出演機会が減ることを恐れずに数万人規模の脱原発集会で司会を務めたり、社会的・政治的発言を続けたりした。前掲書の「原発事故は――」にはこう記す。

 <私はラジオでも講演でも、「(原子力は安全だと)騙(だま)された側にも責任がある」と言ってきましたが、その言葉を一番真摯(しんし)に受け止めてくれたのは木内さんでした>

 東京嫌いの小出さんの背中を押したイベントがあった。4月に江戸川区で開催された「もやい展」。絵画、彫刻、写真などの表現活動を通じて、原発事故を「可視化」し、後世へ継承する試みで、15人のアーティストが出展した。

 「もやう」とは船と船を荒縄でつなぎ合わせること。水俣病が発生した熊本県水俣市で、壊された人と人との関係、人と自然との関係を取り戻すのを目的に90年代に始まった「もやい直し」の運動に着想を得ている。提唱したのはチェルノブイリ原発事故や福島第1原発事故の実相を撮り続けてきた写真家、中筋純さん(54)だ。中筋さんは会場で、自ら撮影した映像作品発表の場でこう述べた。
 「46億年前に地球が誕生した時は、大量の放射線が飛び交っていました。長い時間をかけて減衰し、ようやく生物が暮らせるようになったのに、人間の欲望がウランを掘り起こし、46億年前に戻ろうとしています」。最前列で聞いていた小出さんは、大きくうなずいた。
 福島第1原発事故が起きた時、小出さんは「悪い夢を見ているような毎日だった」という。4号機の使用済み核燃料プールが干上がったり、ベント(排気)できなかった2号機で格納容器が大爆発したりすれば、東日本が壊滅する恐れがあった。
 「福島で事故が起きた時、日本には原発が57基造られ、54基が営業運転していました。そこに至るまで、私はずっと負け続けてきた。国や巨大な原子力産業の前で、私の力はあまりにも小さかった」
 何度か小出さんの講演に通った私は、ある一つのことに気付いた。聴衆に共闘を呼び掛けたり、連帯を求めたりする言葉を意識的に使おうとしないのだ。そう指摘すると、こんな答えが返ってきた。
 「私は徹底的な個人主義者なので、孤立を恐れないで生きてきました。私は人に何も求めません。人間は一人一人がかけがえのない個性を持ち、100万人いれば100万通りの生き方があります。それぞれの人が判断して、行動していけばいい」

 「原子力の場」の「異端者」は後悔を胸に仙人への道を歩んでいる。そして他人からは不器用に見えるかもしれないが「1人の戦い」を今も続けている。

 ◆今回のストーリーの取材は

沢田石洋史(さわたいし・ひろし)(企画編集室)

 1992年入社。東京・大阪社会部、東京地方部副部長、夕刊報道部副部長などを歴任。本欄で2018年に「俳優・中村敦夫 78歳の挑戦」を執筆。毎日新聞ニュースサイトに「この国に、女優・木内みどりがいた」を連載中。