(社説)沖縄復帰49年 アメとムチは通じない
                               朝日新聞  2021年5月15日

 沖縄が日本への復帰を果たして、きょうで49年になる。
 観光を主要産業とする県経済は、昨年来のコロナ禍で極めて厳しい状況にある。3月の失業率は4・4%と、全国平均の2・6%を大きく上回った。
 折しも復帰後10年単位で進められてきた沖縄振興計画が、今年度末で「第5次」の期限を迎える。玉城デニー知事の下で県は次の計画を立案・調整中だ。
 そこで懸念されるのが菅政権の対応だ。「沖縄の心に寄り添い、できることは全てやる」。首相はそう言うが、安倍内閣の官房長官時代からの実際の振る舞いはまるで逆だ。
 米軍普天間飛行場の移設をめぐり、県民投票などを通じて沖縄の人々が繰り返し表明してきた意思を一顧だにしない。
 「辺野古ノー」を掲げた故翁長雄志氏が知事に当選した14年以降、振興予算は削減や前年維持が続く。使途の自由度が高い一括交付金はピーク時の1759億円から半分近くに減り、一方で、県を通さずに国から市町村や企業に直接渡される交付金は増加している。
 カネをテコに政権への服従を迫るような態度だ。そんな手法を主導した菅氏が、いまは首相の座にある。与野党を問わず、沖縄の首長や議員が緊張感をもって次の振興策の行方を見つめているのも当然だろう。
 あすの沖縄のために何が求められるのか。政府は県と綿密に協議して、あくまでも県民の視点で計画の内容を詰めていってほしい。
 過剰な事業はもちろん不要だが、沖縄の「特殊な諸事情」を踏まえ、振興を国の責務と位置づける法の趣旨をないがしろにすることは許されない。
 苛烈(かれつ)な地上戦の後、米軍統治は27年に及び、日本の諸政策が適用されないまま、社会資本整備は著しく遅れた。米軍基地は依然として県土の多くを占め、地域経済の発展を阻害。騒音や環境汚染、米兵らによる事件・事故も後を絶たない。
 かつて菅氏は、会談で沖縄の辛苦の歩みに触れた翁長氏に、「私は戦後生まれで歴史を持ち出されても困る」と応じて、多くの人をあきれさせた。
 歴史に謙虚に向き合い、歴史に学び、歴史の負の部分についても責任を引き受ける覚悟を欠く者に、為政者の資格はない。
 まさかとは思うが今も同じ考えを持っているとしたら、直ちに改め、沖縄が過去から現在を通じて抱えている苦難を正面から受け止めるよう求める。
 アメとムチを駆使して効果をあげたように見えたとしても、結局それは一時的なものでしかない。政治への不信がおりのようにたまっていくだけだ。

 (社説)[5月15日に]復帰50年の焦点化図れ
                                 沖縄タイムス  2021年5月15日

 「5月15日」と聞いて、直ちに「復帰」を思い浮かべる県民は、今、どのくらいいるだろうか。
 戦争で破壊され尽くした沖縄県は、講和条約が発効して日本が独立を回復した後も、同条約3条に基づいて米国の統治下に置かれた。
 米国は冷戦下の沖縄に巨大な基地群を建設し、いざというときに備えて核兵器や毒ガスまで貯蔵していた。
 憲法は適用されず、1970年に国政参加選挙が実現するまで、国会に代表を送ることもできなかった。
 施政権が日本に返還され、沖縄の復帰が実現したのは1972年5月15日、今から49年前のことである。
 来年は復帰50年という節目の年に当たる。沖縄振興特別措置法(沖振法)も来年3月末に期限が切れ、新制度がスタートする。
 本来であれば今の時期は、政治・経済・暮らしなどの分野で復帰の総括が進み、沖縄の将来像を巡る議論が熱っぽく交わされているころだ。
 だが復帰50年を巡る議論はいたって低調である。新型コロナウイルスの猛威に、行政も市民生活ものみ込まれてしまった。
 労働団体などによる平和行進は昨年に引き続き中止となった。各種の大型イベントも軒並み中止に追い込まれた。
 絶好調だと言われた観光関連産業は、一転して絶不調の谷底に突き落とされた。
 豚熱、首里城火災、コロナと、災厄の対応に追われ続ける県から明確なメッセージはなく、復帰50年を焦点化し切れていない。

 軟弱地盤の問題を抱える辺野古の新基地建設は、常識で考えれば、「万事休す」のプロジェクトである。
 最終的な総工費も完成時期も不透明で、普天間飛行場の「一日も早い危険性除去」という当初の目的が、事実上、実現不可能になったからだ。
 政府は、工事を中断して県と話し合うことなく、ひたすら工事を強行するだけ。それなのにコロナ禍と米中対立の激化で、沖縄の基地問題は、本土側の関心を呼ばなくなった。
 復帰50年は本来、こうした状況を改め、沖縄問題への関心を高める絶好の機会であった。
 沖縄問題は何一つ終わっていない、ということを、説得力をもって政府に示し、焦点化することが重要だ。
 県は1月に「新たな振興計画(骨子案)」をまとめ、公表した。各種制度の継続を前提とした案で、変革の強い意志は伝わってこない。

 政府や自民党の中には「単純延長なし」という空気が強い。「末永く特別措置を」という発想はもはや限界だ。
 なぜ高率補助が必要なのか、復帰特別措置をいつまで継続するつもりなのか。次期計画で優先されるべき事業は何か。
 沖縄の米軍基地について、当面、専用施設面積の50%以下を目指すという方針は、具体的にどの基地の返還を想定しているのか。
 こうした論点は、まだ議論が尽くされたとはいえず、議論が低迷すれば変革のエネルギーは生まれない。

 (社説)日本復帰49年 自らの未来は自ら決める   琉球新報 2021年5月15日

沖縄の施政権が日本に返還(日本復帰)されてから49年を迎えた。そして沖縄返還協定の調印と、返還協定の批准を決定する「沖縄国会」から50年の節目である。

 日本復帰に際し、沖縄が求めたのは「国家権力や基地権力の犠牲となり手段となって利用され過ぎて」きた地位からの脱却だった。「5・15」は、自らの未来は自ら決めることを宣言したことを再確認する日としたい。
 軍事植民地のような米国統治を終わらせた最大の要因は、圧倒的な力を持つ米国に立ち向かった沖縄側の民意だった。自治権拡大の象徴として琉球政府行政主席の直接選挙を認めさせた。1968年11月の初の主席公選で当選した屋良朝苗氏は、就任後初の佐藤栄作首相との会談前にこう語っている。
 「私が当選したことによって具体的に示されている沖縄県民の本当の願いとか、要求とか、民意を率直に確認してもらって、国の政治に、外交に十分反映していただきたい」
 屋良主席は「民意」という言葉を使っている。しかし佐藤首相は、その後の施政権返還交渉で、屋良氏の公約「即時無条件全面返還」を選択した沖縄側の民意をくみとらなかった。
 佐藤首相は「核抜き」返還を実現する代わりに、有事の際に沖縄への核再持ち込みを認める密約を結んだ。米側は支払うべきコストを日本に肩代わりさせて沖縄に投入した資産を回収、「思いやり予算」の原型となる財政密約に合意した。そして米軍は基地の自由使用権を手放さなかった。
 1971年の「沖縄国会」は「非核兵器並びに沖縄米軍基地縮小に関する決議」を全会一致で可決している。しかし、基地の過重負担は変わらず国会の総意は半世紀たっても実現していない。
 施政権返還後も沖縄が抱える最大の課題は基地問題だ。日本政府が沖縄に米軍基地の負担を押し付ける結果、米兵が引き起こす事件や事故、騒音被害、環境汚染、人権侵害が続く。沖縄に矛盾をしわ寄せする仕組みは「構造的差別」に他ならない。
 今年4月の日米首脳会談で「台湾の平和と安定」に言及したことは看過できない。台湾有事の際、沖縄が直ちに最前線となる可能性をはらんでいるからだ。宮古、石垣、与那国への自衛隊配備と合わせ、沖縄が再び戦場となる可能性を県民は危惧している。沖縄の平和と安全を度外視した日米同盟は認められない。
 屋良主席に託された民意は、現在に受け継がれている。
 復帰後、沖縄は琉球王国のグスクおよび関連遺産群が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録された。先日、世界自然遺産への登録が確実視されるなど、島の宝は無尽蔵にある。豊かな自然を生かし、未来の沖縄どうつくるか。「復帰の日」にいま一度、沖縄の姿がどうあるべきかを考えたい。

 (社説)沖縄復帰から49年 米軍基地の跡地に花を
                                   東京新聞 2021年5月16日

 沖縄の施政権が米国から日本に返還されて、15日で49年がたちました。この間、米軍基地の返還は本土では進みましたが、沖縄県では遅々として進まず、県内にある在日米軍施設の割合はむしろ増えているのが現状です。
 茨城県ひたちなか市の国営ひたち海浜公園にある小高い「みはらしの丘」は、この春もネモフィラの青い花で埋め尽くされました。
 花が終わるとコキア(ホウキグサ)に植え替えられ、夏には緑色の、秋には紅葉した赤い束が訪れる人々の目を楽しませています。

◆射爆訓練場から公園に
 太平洋を望み、今では花木にあふれるこの丘一帯は、以前「水戸対地射爆撃場(射爆場)」と呼ばれる米軍の訓練施設でした。
 もともと、太平洋戦争末期に特攻機も飛び立った旧日本陸軍の飛行場でしたが、終戦後に米軍に接収され、戦闘機が地上の標的を狙って射撃や爆撃の訓練などを行う場所として使われていました。
 周辺住民は騒音に加え、爆弾の誤投下や機関銃の誤射など基地が存在するがゆえの被害に苦しみます。茨城県が製作した記録映画によると、事故は周辺地域を含めて257件、民間人の犠牲は5人に上りました。
 基地の被害に耐えていた住民を覚醒させたのは、1957(昭和32)年8月に起きた悲惨な事故でした。射爆場の近くを自転車で走っていた母子を、超低空で飛んできた米軍のプロペラ機が車輪ではね、体を切断された母親が即死、息子が重傷を負いました。操縦していたジョン・L・ゴードン中尉の名前から「ゴードン事件」と呼ばれます。
 操縦ミスによる業務上過失致死傷で送検されましたが、公務中の事故とされ、当時の日米行政協定により不起訴処分となりました。

◆増える沖縄の基地負担
 しかし、住民の間には「故意だった」との怒りが広がり、やがて射爆場の返還運動に発展します。その動きは県内に広がり、県民大会も開かれました。
 70年に米軍の訓練が終わり、73年には日本側に返還されました。これも県民の反対運動の高まりに押されたためです。跡地は地元の強い思いにより公園へと生まれ変わりました。花いっぱいの公園は、平和の象徴なのです。
 終戦直後、本土と沖縄との在日米軍基地の面積比率は9対1。本土の方が圧倒的に多かったのですが、55年、東京都砂川町(現立川市)で起きた米軍立川基地拡張に反対する砂川闘争など反米反基地闘争の高まりを受け、本土に駐留していた海兵隊は当時米軍統治下の沖縄に移駐します。
 日米安全保障条約が改定される60年ごろまでに、本土の米軍基地は4分の1に減り、逆に沖縄では約2倍に増えた、といいます。
 72年の沖縄復帰のころには、その比率は2対3となり、今では3対7と、本土から米軍基地を押し付けられた形の沖縄の基地負担比率は増していきました。
 69年の日米共同声明と71年の沖縄返還協定には「核抜き本土並み」という原則が示されます。
 日本政府は「核抜き」について沖縄に核兵器が存在しないこと、「本土並み」を、本土に駐留する米軍同様、沖縄に残る米軍を日米安保条約の枠内にとどめることを意味するとしてきました。
 ただ、当時の佐藤栄作首相は国会演説で、本土並みについて返還後の速やかな米軍施設、区域の整理縮小と関連づけて説明もしています。
 本土並みには米軍基地の整理縮小という含意があり、それが沖縄の人々の願いでもあったことは確かです。
 にもかかわらず、本土と比べてむしろ増える基地負担に、沖縄の人々が不満を抱くのは当然です。矛先は政府だけでなく、本土に住む私たちにも向けられています。
 米軍普天間飛行場(宜野湾市)の返還に当たり、沖縄県知事だった仲井真弘多氏は、移設先を「北海道から鹿児島までヤマトで探してもらいたい」と訴えました。
 政府が進める名護市辺野古への県内移設では、沖縄の人々の基地負担を抜本的に減らすことはできないからです。
 仲井真氏はその後、県内移設容認に転じましたが、沖縄の切なる思いを、本土の私たち自身が誠実に受け止める必要があります。

◆ネモフィラが示す希望
 冒頭に紹介したひたち海浜公園の話に戻りましょう。新型コロナウイルスの感染拡大で一時的な休園もありましたが、コロナ禍前には年間およそ200万人が訪れる人気の観光地となりました。
 沖縄の米軍基地も花があふれる公園にできないでしょうか。沖縄の人々と本土の私たちの力を結集して政府を動かせば、返還が実現し、憩いの場に変えることができる。そんな可能性や希望を、ネモフィラの青い花は示しています。

 論説)沖縄復帰の日 再び「最前線」にするな
                                           茨城新聞 2021年5月16日

 沖縄は15日、1972年の本土復帰から49年を迎えた。
 52年にサンフランシスコ講和条約で主権を回復した日本から、沖縄は切り離された。戦争放棄の憲法9条が適用されない沖縄には本土から米軍基地が移設され、軍事拠点化が進んだ。県民は本土復帰運動で基地の撤去を求めたが、それがかなわぬままの復帰だった。
 安全保障上の負担を沖縄に押し付ける構図は約半世紀たっても変わらない。在日米軍専用施設の約70%が沖縄に集中し、名護市辺野古では大規模な基地移設工事が進む。さらに、米中両国の対立が深まる中で、沖縄の軍事拠点としての重要性が強調され、自衛隊の配備も強化されている。
 しかし、冷静に考えたい。沖縄県・尖閣諸島や台湾を巡る軍事衝突が起きれば、沖縄は確実に戦闘に巻き込まれる。住民らに甚大な被害が出る事態を想定すべきだ。
太平洋戦争末期の沖縄戦では本土防衛の「最前線」とされ、米軍統治時代にはアジア展開の前線基地とされた沖縄を、再び国際的対立の最前線にしてはならない。北東アジア地域の平和と安定に向け、緊張緩和を働き掛ける外交的取り組みが政府には求められる。
 49年前の5月15日、琉球政府主席から県知事となった屋良朝苗氏は、那覇市で開かれた記念式典で、米軍基地に言及し、「これからも厳しさは続き、新しい困難に直面するかもしれない」と述べた。その懸念は現実のものとなっている。
国土面積の約0.6%の沖縄は過重な基地負担を強いられ、日米地位協定に守られた米兵が絡む事件・事故も後を絶たない。 玉城デニー知事は今年2月の県議会で「当面、全国の50%以下を目指す」と数値目標を挙げて基地縮小を働き掛ける考えを表明した。基地の運用には地元の理解が不可欠だ。沖縄の声を受け止めるよう政府に求めたい。
だが、現実の動きは異なる。防衛白書は、朝鮮半島や台湾海峡などの「潜在的紛争地域」に近い沖縄は「安全保障上極めて重要な位置にある」として、沖縄米軍基地の「抑止力」を強調する。
 その「台湾」を共同声明に明記したのが、4月の菅義偉首相とバイデン米大統領との首脳会談だ。声明は「台湾海峡の平和と安定の重要性」を指摘し、対中戦略での日米の連携を確認した。
 日米の首脳声明に台湾を明記するのは、沖縄返還で合意した69年の佐藤栄作首相とニクソン大統領の会談以来となる。ただ、米中がその後、対話に向かった69年当時と比べ、今の方が緊迫度は高いかもしれない。
 同盟国重視の姿勢を打ち出しているバイデン氏は、同盟国に応分の貢献を求めてくる可能性がある。日本政府も台湾有事を想定し、自衛隊活動の法運用の検討に入っているという。しかし、台湾有事が起きれば、沖縄の米軍基地も攻撃対象となるだろう。有事を回避する外交努力にこそ全力を傾注すべきだ。
 日米の学者らでつくる「万国津梁(しんりょう)会議」は3月、沖縄はその地理的条件を生かし、地域の信頼醸成のための連携の拠点を目指すよう県に提言した。各国の経済的結びつきは深い。政府が目指すべき方向も同じではないか。米政権の同盟重視の姿勢を捉えて日本の発言力を高め、緊張緩和と沖縄の基地縮小を実現していく戦略が求められる。