(社説)東日本大震災から10年/目に余る原発回帰の動き
                                     北海道新聞 2021年3月11日

 東京電力福島第1原発構内の高台に立つと1号機建屋の無残な姿が100メートル先に迫る。爆発から10年を迎える今も鉄骨はむき出し、汚染したがれきが残ったままだ。
 10年前、国内初の炉心溶融事故が発生した。9カ月後には政府が1~3号機原子炉の「冷温停止状態」を宣言し、2041~51年に完了する廃炉工程表を示した。
 だが高い放射線量で作業は進まず、今年初めて2号機で始めるはずだった溶融核燃料(デブリ)取り出しはコロナ禍で延期された。
 350万平方メートルもの広大な構内は、汚染水を浄化する多核種除去設備(ALPS)やタンクがひしめく灰色の空間だ。原発推進の末路を象徴した風景といえる。
 それなのに国は破綻したはずの核燃料サイクル政策に固執し、原発再稼働の拡大をもくろむ。
 今夏には新たなエネルギー基本計画が策定される。福島事故と誠実に向き合い、原発に依存しない将来像を明確に描くべきだ。

■相次ぐなし崩し手法
 福島沖の漁は事故後の試験操業が今月終了し本格再開を目指す。だが、いわき市の漁師新妻竹彦さんは「またも風評被害に悩まされる」と気が気でない。
 処理汚染水の海洋放出を国が近く決定する構えを見せるからだ。デブリを冷やす注水などで増える汚染水はALPS処理後も放射性物質トリチウムなどが残る。
 120万トン超が千基以上のタンクに保管され、来秋以降に容量を超えるという。このため、有識者の政府小委員会は昨年「海か大気への放出が現実的」と報告した。
 時間切れを見計らい、なし崩し的な決着を図る。福島県内の除染土などを一時的に引き受ける中間貯蔵施設でも同様の不安がある。
 総量は札幌ドーム9杯分の約1400万立方メートルに及び、福島第1周辺の用地への搬入が進む。
 法律では45年までに県外で最終処分とする。福島県の内堀雅雄知事は「国と県民との約束だ」と強調するが、搬出先選定の難航は必至で施設定着化が懸念される。
 政府は復興の基本方針を改定し福島重点化を打ち出した。その代償に地元負担が強いられるならば許されない。課題解決は国民的な議論で合意を目指すのが筋だ。新たな安全神話生む。
 事故後に原子力規制委員会の審査に合格した原発は16基、うち9基が再稼働した。震災で被災した東北電力女川原発も許可され、関西電力高浜1、2号機などには40年を超す運転期間延長を認めた。
 これに対し昨年12月の大阪地裁判決は、関電大飯3、4号機の許可に「看過しがたい過誤、欠落」があったとして取り消した。
 だが、更田豊志委員長は「規制委は理系集団で(文系の)司法当局に専門用語が誤解されている面が大きい」と反論した。説明責任を放棄した態度にしか見えぬ。
 「国内外の多様な意見に耳を傾け、孤立と独善を戒める」という活動原則に反するのではないか。
 福島事故時には原子力行政に関わってきた専門家が楽観的な見解を繰り返し対応が後手に回った。
 専門家が国民の意識とかけ離れれば、あやまちが繰り返されるリスクが高まってしまう。
 規制基準を満たせば事故は防げるという新たな「安全神話」が生まれてはいまいか。長引く泊原発の再稼働審査では北海道電力の規制委任せの姿勢が問題視された。
 再稼働はあくまで例外措置とする審査体制への転換を求めたい。

■再エネを主力電源に
 国際世論に押され、菅義偉政権は昨年「50年に温室効果ガス排出実質ゼロ」方針を表明した。
 これを電力業界は二酸化炭素を出さない原発回帰の好機ととらえる。自民党からも新設の検討を求める声が出てきた。
 現行のエネルギー基本計画が目指す30年度の原発比率20~22%は約30基の稼働に当たる。新増設の口実となる目標は撤回すべきだ。
 プルトニウムを再利用するプルサーマル発電推進を北電などが先月発表した。高レベル放射性廃棄物(核のごみ)の最終処分場選定調査も昨年11月に後志管内寿都町と神恵内村で始まった。
 いずれも核燃サイクルを支える動きで、見過ごせない。
 世界では福島事故を契機に脱原発の潮流が強まっている。ドイツは来年末に稼働ゼロとし、50年には再生可能エネルギーで電力の8割を賄う方針だ。台湾も25年の脱原発達成を目指す。
 福島事故賠償費用は10兆円超となり、道内も今後40年で500億円分が電気料金に上乗せされる。処理費を見込むと結局原発は高くつく。経済同友会は昨年「30年の再エネ比率40%」を提言した。
 10年という節目に、事故の教訓を風化させないという反省を込めて、国は再エネ中心の基本計画に踏み出すべきだ。

 
(社説)3・11から10年 影をこそ伝えたい
                                       東京新聞 2021年3月11日

 窓越しに遠く、水平線が見渡せます。10年前、東京電力福島第一原発に襲いかかったあの海です。
 福島県双葉町の「東日本大震災・原子力災害伝承館」。原発から北へ4キロの海辺に広がる「福島県復興祈念公園」の一角に、昨秋開館したばかり。ガラス張りの外観が印象的な、それ自体がアートのような建物です。
 総事業費は約53億円。国の復興予算を使って福島県が建設し「公益財団法人・福島イノベーション・コースト構想推進機構」という団体が運営しています。

◆教訓を伝えているか
 来館者はまず円形のシアターに通されて、壁いっぱいに映し出される原発事故や津波の模様を記録した映像作品を鑑賞します。
 <光もあれば影もあります。事故のこと、復興のこと。この場所で皆さんと一緒に考えることができたなら>
 福島県出身の俳優西田敏行さんの語りに導かれ、螺旋状(らせんじょう)の回廊を展示室へと進むのですが-。
 県が収集、保管する約24万点の震災資料のうち、実物展示されたのは、突然の避難を強いられて置き去りにされたランドセルやカメラなど、170点足らず。映像や展示パネルにも、安全神話を形成し、原発誘致を主導した国や県、東電の責任などへの言及は、ほとんどありませんでした。
 「教訓が伝わらない」「光ばかりで影がない」…。被災者からも多くの批判が寄せられて、開館して半年もたたないうちに、大規模な展示替えが進んでいます。
 例えば「原子力 明るい未来の エネルギー」という標語を掲げた長さ16メートルの大看板。かつては町の中心に、まるで凱旋門(がいせんもん)のように飾られていたものの、震災後「老朽化」を理由に撤去され、役場の片隅に死蔵されていた実物が、今あるパネル写真に替えて展示されることになりました。震災後「負の遺産」と呼ばれるようになった看板です。

◆暗転した「明るい未来」
 双葉町に生まれ、今は茨城県古河市で太陽光発電事業を営む大沼勇治さん(45)が看板の標語を作ったのは、小学6年生の時。町からの募集に伴う学校の宿題でした。
 「原発のおかげで、町は仙台のように大きくなって、新幹線もやって来る。そんな21世紀を本気で思い描いていたんです」と、勇治さんは振り返る。全国の原発立地に共通の“夢”でした。
 10年前の今日、「明るい未来」は突然、文字通り暗転します。
 双葉町にいた発災時、妻のせりなさん(45)は妊娠七カ月。できるだけ安心安全な場所で出産をと、親類を頼って夫婦は愛知県安城市に避難しました。
 その年7月、勇治さんは防護服に身を包み、町が仕立てたバスで、避難後初めて双葉町に立ち入った。ひとけの全くない町をダチョウや牛がわが物顔でのし歩く。懐かしいはずのふるさとに、恐怖を感じる自分に気が付きます-。
 「原子力 破滅を招く エネルギー」。その時、大沼さんは心の中で看板を書き換えました。そして「この町の過去と未来を記録し続けよう。看板の言葉とともに次の世代に伝えていこう」と決めました。看板の撤去にあらがい、撤去後は伝承館への実物展示を訴え続けてきたのも、そのためです。
 せりなさんは、同じ県内でも原発からは距離のある会津若松市の出身ですが、勇治さんに深く共感し、ともに活動しています。
 「原発のこと、原発事故のこと、やっぱり子どもたちに伝えてあげたいと思うんです。この町でこういう悲惨なことがあったんだよって。看板を展示できれば、あれを見て、みんな、いろいろ考えてくれるんじゃないかしら。事実を知って、考えて、本当に『明るい未来』を、それぞれに築いてほしい」
 安城で生まれた長男の勇誠君は六月、十歳の誕生日を迎えます。勇治さんは背負い続けた看板に、せりなさんは子どもたちの成長に、十年の重みを感じています。

◆遠い道のりだからこそ
 「もう10年? まだ10年? やっと10年?」などと言われます。しかしやっぱり「まだまだ10年」なんでしょう。「まだ」と言えば廃炉におよそ40年。核のごみを無害化するには10万年。まだ、まだ、まだ、まだ…。
 <原爆は威力として知られたか。人間的悲惨として知られたか>
 せりなさんと話をしながら、ふと思い浮かべた言葉。大江健三郎さんの「ヒロシマ・ノート」に引用された、中国新聞論説委員の問いかけです。
 原発は威力として知られたか。人間的悲惨として知られたか。私たちは何を伝えていくべきなのか-。3・11から10年の一里塚。私たちも自らに、あらためて問いかけなければなりません。

 
(社説)津波被災地の10年 「主役は住民」の理念新たに
    
                   朝日新聞 2021年3月11日

 復旧ではなく復興。それも「21世紀半ばにおける日本のあるべき姿」をめざした「創造的復興」に取り組む――。
 10年前に打ち出された理念のもと、多くの人がそれぞれに努力を重ねてきた。そしていま、被災地には光と影が交錯する。
 祈りの日のきょう、津波の被害を受けた宮城県のまちの、この間の歩みと苦悩をたどることを通して、その向こうにある明日の日本のあり方を考える。

 ■「安全なまち」の代償
 高さ10メートルの防潮堤に、山を削って海抜20メートルの高台に造られた住宅地。挟まれた土地のかさ上げも行われ、石巻市雄勝(おがつ)地区は「千年に一度」の大津波に耐えられるまちに生まれ変わった。
 同時に多くのものを失った。工事が長引く間に、住まいを移す住民が相次いだ。震災前に約4300人だった人口は4分の1に減り、65歳以上の高齢化率は57%に達する。
 創造的復興とともに掲げられた「地域・コミュニティー主体の復興」はかなわなかったと、唇をかむ人も少なくない。
 手をこまぬいていたわけではない。震災2カ月後に「まちづくり協議会」を発足させた。復興を急がなければ地元を離れる人が増えてしまう。そんな危機感から、夏には、時間のかかる防潮堤整備ではなく高台への移転方針を固めた。
 だが、合併で広くなった市内各地の仮設住宅にばらばらに入居した住民をまとめるのは至難の業だった。その日を過ごすのにみな精いっぱいで、先々のことを考える余裕はなかった。
 現地での再建も認めるべきだとの声が出始め、県が防潮堤の建設を提起すると意見はさらに割れた。翌夏に現地派は協議会を外され、高台移転と防潮堤のセット案が市から示された。
 異論を唱える人には市幹部が説得に回り、徐々に少数派に。行政の方針にあらがえない状況がつくられていった。副会長だった高橋頼雄さん(53)は「住民の話し合いの場のはずが、役所が決めたことを認めさせる場になってしまった」という。
 巨大な防潮堤とともに、まちには深い傷が刻まれた。「これはめざした復興ではない」。高橋さんらの悔恨は尽きない。

 ■震災前からの蓄積
 県の意向を住民が押し返した例もある。
 気仙沼市はカツオの水揚げ日本一を誇る水産のまちだ。ここでも防潮堤が問題になった。
 県が示した計画ではその高さは6メートル余。造り酒屋の菅原昭彦さん(58)らを中心に「防潮堤を勉強する会」を立ち上げた。「いくら大きなものを造っても津波は防げない。基本は避難。海と呼吸を合わせて生きてきた私たちは、海が見えなくなる怖さを知っている」と訴え、協議は震災3年後まで続いた。
 ここでも、絶対反対の人もいれば復興を急ぐべきだという意見もあった。賛否を戦わすのではなく、情報を共有し、様々な選択肢を提案・検討する。そんなやり方で時間をかけて議論した結果、かたくなだった県も態度を変えた。堤の上部を可動式にすることで高さは2メートル低くなり、海への視界も守られた。
 震災前から市民参加のまちづくりに取り組み、合意をどう取りつけるかを学び、実践してきたことが役に立った。自然や伝統を大事にしながら持続可能な地域をめざすスローフード運動を通じて、住民間の関係を深めていたことも大きかった。

 ■「そのとき」に備える
 国や自治体に流されず住民として最適解を出す。理想はそうであっても、被災後の混乱と不安の中で実践する難しさを、東日本大震災は浮き彫りにした。地域がもともと持つ経済力なども影響するが、決め手になるのはやはり人であり、日ごろの活動で鍛えた足腰であることを、気仙沼の経験は教える。
 津波被災地のインフラ整備は間もなく終わる。だが災害は繰り返し襲ってくる。3・11後、実際に災害が起きたらどう対処するかを、住民と自治体が協力してあらかじめ計画しておく「事前復興」の考えが、南海トラフ地震の想定地域をはじめとして各地に広がる。
 いつか来る「そのとき」に備え、ふだんから地域の結びつきを確かにして、命をつなぐ策を講じ、まちを立て直す力を蓄える。この列島に生きるすべての人に共通する課題だ。人口減や高齢化が進んで、地方には地方の、都市部には都市部の悩みがあるが、ねばり強く地道に取り組むほかない。
 南三陸町のさんさん商店街の山内大輔会長(42)は「地元の資源を生かし、背伸びはしない。それでも、そこにしかないものがあれば人はおのずと集まる」と話す。豊かな海産物と各店一体となった運営が人気を呼び、コロナ下の昨年も50万人の観光客が訪れ、人口1万2千人の町を牽引(けんいん)している。
 まちづくりの主役はあくまで住民であり、国や自治体はそれを後ろで支えるのが役目だ。この10年の試行錯誤を社会全体で共有して将来につなげたい

 
(社説)大震災10年/惨禍の教訓を次代につなごう
                             読売新聞 2021年3月11日

 東日本大震災から10年を迎えた。死者・行方不明者は2万2000人を超える。震災の体験を語り継ぎ、次代の教訓としなければならない。
 巨大な津波が海辺の街をのみ込んだ。家や車が押し流され、人々が逃げ惑う。壊滅的な打撃を受けた被災地の姿が脳裏に蘇(よみがえ)る。
 政府主催の追悼式が11日、東京都内で行われる。今年が最後で、天皇、皇后両陛下が臨席し、天皇陛下がお言葉を述べられる。
 地震発生時刻の午後2時46分、亡くなられた方々への哀悼の意を込めて、黙祷(もくとう)を捧(ささ)げたい。
 岩手、宮城、福島の3県で進められてきた生活基盤整備がほぼ終了し、住宅や道路は復旧した。震災後に造成された土地に新しい家や施設が立ち並び、惨禍の痕跡さえ見つけられない地域もある。
 防潮堤の建設や造成した高台への集団移転などの複合的な対策によって、被災地で暮らす人々の安全性は格段に高まった。
 あの日、津波に襲われた被災地を見て、再生はかなわないと感じた人も多いだろう。30兆円超の予算を投じた事業は、被災者のひたむきな努力と相まって、確かな成果を残したと言える。
 震災を機に、全国の自治体がハザードマップや避難計画の策定などを進めてきた。露(あら)わになった防災の弱点を克服するためだ。
 それでも、地震や豪雨災害が起きる度に、新たな課題が浮上する。ハードとソフトの両面から減災対策を追求し、災害に強い国づくりを進めなければならない。
 時が経(た)つにつれ記憶の風化は進む。読売新聞の世論調査では、被災地への国民の関心が薄れていると感じる人が9割を超えた。
 教育現場で震災の教訓を伝えることが大事だ。資料保存の取り組みや語り部活動を支えたい。記憶を次の世代に伝え、未曽有の体験と向き合い続けることは、将来の被害軽減につながるはずだ。
 震災後、政府は「創造的復興」の理念を強調した。単なる復旧ではなく、地方創生を先導するような復興を図るとの趣旨だった。
 現実には多くの被災地で、住民が避難先から戻らず、造成地に空き地が広がっている。人口減と高齢化が進み、基幹産業である水産加工業の回復は滞っている。
 理念の実現を阻んだ要因は、どこにあるのか。国は復興事業の成果と課題を検証してほしい。
 当時の民主党内閣は、復興事業費の全額を国費で賄う措置を取った。自治体に重荷を負わせないという狙いだったが、逆に、事業内容の吟味が甘くなり、肥大化につながったことは否めまい。
 国費で作られた施設の維持管理費は今後、自治体が支出することになる。高齢化の進展に伴って、社会保障費も増えるだろう。自治体が財政負担に耐えられるのか、十分な検討が必要になる。
 住民との合意が不十分なまま、巨大な防潮堤が建設された街もある。海が見えなくなった古里に、喪失感を覚える人は多い。
 災害の発生直後は、生活再建に追われる被災者が街づくりに異を唱えることは難しい。かといって、合意を尊重して復興に時間をかけすぎれば、避難先から戻れなくなる人が増えてしまう。
 このジレンマを解消するには、自治体と住民が平時から復興のあり方を話し合う「事前復興」の取り組みが重要になる。
 被害想定を踏まえ、被災した場合の街づくりの方向性を定め、指揮命令系統や手順を決めておく。事前に青写真を描くことは、円滑な復興の実現に資するだろう。
 東京電力福島第一原子力発電所事故が起きた福島県は、再生への道筋を見いだせずにいる。
 約3万6000人の避難者が今も県内外で暮らしている。放射線量が高く、住民が戻れない帰還困難区域はバリケードで封鎖され、朽ちた家が取り残されている。
 原発の廃炉には30~40年を要する。溶融燃料を取り出す作業は思うように進まず、処理水の海洋放出は風評被害への懸念から、実施の見通しが立っていない。
 国はロボットなどの研究施設を沿岸部に集積した。新たな産業を創出して日本の競争力を高め、成果を世界に発信するという。すでに500億円超を投じたが、目標としている地域の雇用に結びついているとは言い難い。
 国が事業の先頭に立つのは当然だが、理想を追い求めるあまり、住民を置き去りにしては、再生はおぼつかない。地域の声に耳を傾けながら進めることが重要だ。

 
(社説)大震災10年 福島の再生 ともに歩む決意を新たに
                                           毎日新聞 2021年3月11日

 10年前のきょう、私たちが経験したのは人類史上例のない複合災害だった。
 東日本大震災による東京電力福島第1原発事故で、福島の人たちは故郷を離れざるをえなかった。今も県内外で3万5000人以上が避難生活を強いられている。
 放射能汚染の除去が進められ、避難指示は順次解除されたが、住民の帰還は十分には進んでいない。自治体による格差も目立つ。
 避難生活が長引く中で、生活基盤が地元から移ったことが影響している。
 政府の対応が住民の不安を増幅させているという事情もある。
 政府は帰還困難区域の全域で避難指示を解除すると表明しているが、除染の方針が示されていない地域が多い。いつ、どのような形で解除されるかは明らかになっていない。

進まない故郷への帰還
 最長40年かかるとされた原発の廃炉作業が、あと30年で終えられる見通しもたっていない。
 溶け落ちた核燃料の取り出しは今年中に始まる予定だったが、1年程度延期となった。
 汚染処理水をためる約1000基のタンクは2022年度末には満杯となる。にもかかわらず、どう処分するかは決まっていない。
 それらの課題について早期に道筋を示すことが大前提だ。
 帰還の進まない自治体があり、政府は新しい住民の移住促進に施策の重点を置くことにした。新年度から、原発周辺の12市町村に移住する人に対して最大200万円を支給する事業を始める。
 人口を増やして、まちのにぎわいを取り戻そうという計画だ。
 だが、それだけで福島の再生は可能だろうか。

全村避難となった葛尾村は、震災前の人口が約1500人の小さな村だ。
 これまでも、移住者を含め村内で自宅を建てた住民に祝い金を贈るなどの取り組みをしてきた。現在の居住者は431人で、うち避難指示解除後の転入者が104人と、4人に1人を占める。
 移住促進にかかわる葛尾むらづくり公社の米谷(まいや)量平さん(34)は、自身も2年前に村へ移住した。地元新聞社の記者として担当していた村の復興にかかわりたいと思ったからだ。
 米谷さんは、村の基幹産業である農業の技術を「村の財産」と言う。移住者ら若い世代に伝える機会をつくり、伝統をつなぐことが大事だと考えている。
 「移住者をただ増やすことが目的だとは思っていない。できれば村の将来を一緒に考えてくれる人に来てほしい」と話す。
 国家プロジェクト「福島イノベーション・コースト構想」も、地元の住民や企業の意向をどのように反映させていくのかが問われている。
 構想は、ロボット開発や再生可能エネルギーなど、最先端の産業や技術の拠点をつくろうという国の福島復興策の柱ではある。
 だが、地元の人の関心は薄い。自分の仕事や生活との関わりが見えてこないからだ。

欠かせぬ人のつながり
 新たな人や産業を呼び込んでも、新旧の住民が一緒になってまちの再生に取り組む仕組みがなければ、震災前とは断絶した全く別のまちになりかねない。
 福島に住んでいなくても地域の将来を考えている人たちがいる。
 富岡町の今里雅之さん(74)は、原発事故で娘が住む横浜市へ妻とともに避難した。
 しばらくは近所付き合いもなく、孤立感にさいなまれた。
 支援団体と相談して6年前、神奈川を中心とする避難者の会をつくった。約100人の同じ境遇の人たちと交流し、「たまっていたものを吐き出せて、気持ちが楽になった」という。
 会の仲間らと地元の小中学校の校歌の合唱を練習し、福島を訪れて地域の祭りで披露した。
 動物に荒らされ放題だった自宅は取り壊した。だが、「今後も地域の伝統や文化の継承に関わっていきたい」と思っている。
 こうした人たちは全国に散らばっている。離れていても、地域のつながりを維持するうえで、大きな役割を果たすことができる。

 再生への道はこれからも続く。

 原発事故は、地方に負担を強いる大都市のあり方にも疑問を投げかけた。これは福島だけの問題ではない。住民とともに歩み続ける決意を新たにしたい。

 (主張)東日本大震災10年/風化に抗い風評を絶とう
                                                  産経新聞 2021年3月11日

 ■復興を「日本再生」の原動力に
 3月11日を迎えた。
 東北地方の太平洋沖を震源とする巨大地震=マグニチュード(M)9・0、最大震度7=が発生し、岩手、宮城、福島県の沿岸地域は大津波に襲われ壊滅的な被害を受けた。
 東京電力福島第1原子力発電所はすべての電源を喪失し、過酷事故に至った。
 あれから10年になる。
 死者  1万5899人
 行方不明者 2526人
 震災関連死 3767人
 鎮魂の日である。
 今を生きる者が震災犠牲者に心を寄せ、被災者と、被災地の復興を支え抜く意思を新たにする日である。

 「3・11」の意味は、年月を重ねて大きくなった。
 この10年、熊本地震(平成28年)や西日本豪雨(30年)をはじめ大規模な自然災害が相次ぎ、多くの犠牲者を出した。
 昨年からは新型コロナ禍に「当たり前」の日常を断たれ、社会経済活動の停滞が続いている。
 東北の復興をさらに前に進め、成し遂げなければならない。その力とその志は今後も日本列島を襲うであろう自然災害から立ち上がり、新型コロナのような災禍を乗り越える力となるだろう。

 ≪荒浜小の教訓再確認を≫
 現在は震災遺構として一般公開されている仙台市立荒浜小学校の「3・11」を紹介したい。
 巨大地震発生の70分後、仙台市中心市街地から10キロ離れた若林区荒浜の集落を襲った大津波は、風よけの松林をなぎ倒し、800世帯、2200人が暮らした住宅を根こそぎ押し流した。
 海岸から700メートルの荒浜小の4階建て校舎には、児童71人、教職員16人、地域住民233人が避難していた。津波と瓦礫(がれき)は校舎2階まで達したが、320人の避難者は全員、ヘリコプターによる移送などで救助された。
 地震、津波を想定した訓練に力を入れ、地域住民との連携も重視していたという。特にここで伝えたいのは、震災1年前のチリ地震津波を契機に避難計画を見直し、集合場所を体育館から校舎に変更していたことである。
 体育館よりも、耐震化された校舎の方がリスクは小さいと判断した。体育館は津波で大きな被害を受けた。集合場所の変更がなければ、全員の命は守れなかった可能性が大きい。
 2010年2月末のチリ地震で気象庁は青森、岩手、宮城県に大津波警報、日本列島の太平洋岸全域に津波警報を出した。観測された津波は最大1メートル強で、避難所に逃げた住民はわずかだった。気象庁は予測が過大で警報解除が遅れたことを謝罪した。
 チリ地震の記憶は、気象庁の警報を軽視し避難行動を鈍らせる要因になったと考えられる。ヘリで救助された荒浜の被災者から「チリ地震の大津波警報でも、1メートルばっかの津波だったから…」という声を聞いたことがある。
 荒浜小は大震災1年前のチリ地震を避難行動の改善につなぎ、320人の命を守った。
 先月13日の福島県沖地震で、東日本大震災を想起した人は多いはずだ。災害への備えと命を守る心構えを再確認し、更新するきっかけにすることが大事だ。

 ≪人の営みを回復したい≫
 荒浜地区は災害危険区域に指定された。震災瓦礫は撤去され、大規模な盛り土による津波避難の丘が築かれたが、居住地としては復旧されない。道路、鉄道、災害公営住宅などインフラ面の復旧は確かに進んだが、多くの被災地で「人の営み」は回復していない。復興はまだ途上である。
 「人の営み」の回復、再生は被災地全体の課題であり、日本の課題である。被災地の復興が被災者や被災自治体だけの問題ではないことを再認識したい。
 福島の復興を妨げている風評被害の根絶は、最も重要な課題の一つである。風評の根絶なくして、日本の再生はない。
 差別やいじめと同じで風評被害は被害者がもがいても、なくならない。コロナ禍のなかで起きた感染者や医療従事者に対する差別も根は同じだ。
 社会全体が徹底的に被害者を守りながら、社会の中に潜んでいる風評と差別の芽を摘んでいくことでしか、風評や差別の根絶はできない。一人一人が、風評、差別に向き合う覚悟を持ちたい。

 (社説)福島事故後の日本/「夢」から早く覚めねば
                                          中國新聞 2021年3月11日

 東京電力福島第1原発事故を引き起こした東日本大震災から、きょうで10年になる。
 原発はいったん暴走すると、最新の科学技術でも人間の手に負えなくなる。放出された放射性物質の中には、半減期が何万年にも及ぶプルトニウムなどもある。10年という歳月は、汚染された大地が元に戻るには、あまりに短すぎよう。

 ▽理論では無尽蔵
 第1原発のある福島県双葉町の中心部に掲げられていた看板を思い出す。「原子力明るい未来のエネルギー」という標語が記されていた。かつて核の文明が切り開く、「夢」の未来を描いていた時代があった。
 そろそろ目を覚ます必要がある。原子力政策自体、甘い夢の連続で、政府は都合の悪いことから目を背けさせてもいた。報道も夢を振りまくのに加担していた。反省せねばならない。
 「夢のような」原子炉と宣伝されてきたのが高速増殖炉である。プルトニウムを燃料とし、使った量以上のプルトニウムを生み出す。燃料を増殖させるのだから、理論的には「無尽蔵」のエネルギー供給源となる。政府は原型炉もんじゅに1兆円を超す国費を投入して研究開発を続けてきた。しかしトラブルが絶えず、夢は実現の兆しすらないまま廃炉が決まった。
 原発が設置される市町村には、過疎脱却という夢を与えてきた。1970年代のオイルショックを受け、政府が原発推進に乗り出す。電源3法を成立させ、交付金や補助金を使って立地を促進した。ただ住民の夢はどれほど実現しただろう。

 ▽「政策嘘だらけ」
 原発導入に積極的だった政治家は「平和」利用を掲げつつ別の夢を見ていた。岸信介元首相らは平和憲法下でも、核兵器保有は可能だと主張していた。核武装を考えていたようだ。
 決して昔話ではない。原発事故後の原子力基本法改正では、「わが国の安全保障に資すること」を安全確保の目的の一つとして加えた。当時野党だった自民党の主張が取り入れられた。軍拡を続ける中国や北朝鮮に対抗する狙いがあったのだろう。しかし核兵器の開発や保有は、禁止条約が発効した今、あまりにも現実離れしている。
 原子力規制委員会の田中俊一前委員長の言葉が腹に落ちる。数千年分のエネルギー資源が確保できると宣伝していた増殖炉をやり玉に挙げ「日本の原子力政策は嘘(うそ)だらけでここまでやってきた。結果論も含め本当に嘘が多い」と19年、月刊誌のインタビューに答えていた。

 ▽異論に耳傾けず
 うそとまで言えなくても、原子力の専門家が間違うことは多い。例えば実際に福島原発で起きたことを予言する問題提起は生かされなかった。巨大地震で冷却水が失われるなどで水素爆発が起きて建屋が破壊される恐れが1997年に指摘されていた。しかし原発関係の研究者は「二重三重の安全対策がなされている」と事実上黙殺した。
 異論に耳を傾けようとしない態度は、閉鎖的と指摘される「原子力ムラ」ならでは、かもしれない。議論を尽くすドイツの姿勢とは大きな開きがある。
 福島の事故直後、ドイツ政府の設けた倫理委員会は、多様なメンバーで議論した。重大事故が起きると、国境を越えて影響を与える上、放射性廃棄物の問題を次世代に残してしまう—。そんな理由で2022年までの全ての原発閉鎖を政府に勧告した。実現可能性や経済性だけではなく、地球規模の視点や次代への責任も踏まえた議論は今の日本に決定的に欠けている。
 それどころか、逆行する動きもある。温暖化防止の脱炭素を旗印に、原発推進が熱を帯びている。再稼働や老朽原発の延命に期待があるようだ。さらに設置許可の基準が事故後、世界一厳しくなったことをアピールする専門家もいる。それでも事故時の避難計画を規制要件としている米国に比べ、住民の安全確保策として十分か甚だ疑問だ。

 新たな安全神話を生まないためにも、原子力政策が振りまいてきた夢をまずは検証して、後始末を急ぐべきではないか。

 
(社説)原発政策/事故の教訓未来に生かせ
                                         西日本新聞 2021年3月11日

 東京電力福島第1原発の事故で古里を追われた人たちの言葉を今に伝える朗読劇が16日に福島県内で開かれる。
 舞台は、福島第1原発の10キロ圏にある富岡町の人々の多くが事故後に身を寄せた郡山市の避難施設。その記録本「生きている 生きてゆく ビッグパレットふくしま避難所記」に収められたつぶやきを、高校生から70代までの約20人が演じる。
 NPO法人「富岡町3・11を語る会」が企画した。10年前の体験を忘れず、未来につなぐ試みである。
 富岡町に出された避難指示の大部分は事故の6年後の2017年に解除されたが、現在の住民は事故前の1割にとどまる。町内は建物を解体した更地が目立ち、バリケードの先には放射線量が高く立ち入り規制が続く帰還困難区域が広がる。
 地元に豊かさをもたらしたはずの原発が、住民のかけがえのない日常を破壊し尽くした。語る会の青木淑子代表は「原発で電気をつくるならそれなりの覚悟が必要。福島の現状を見て考えてほしい」と訴える。全ての国民に向けられたものだ。

■得られぬ地元の同意
 あの原発事故から10年。国のエネルギー政策が分岐点に立っている。菅義偉首相が昨年、2050年までに温室効果ガス排出を実質ゼロにする「カーボンニュートラル」を打ち出した。これを見据えたエネルギー基本計画の議論が本格化している。
 再生可能エネルギーの導入加速に争いはなく、最大焦点は原発の位置付けだ。将来の原発ゼロを目指すのか、再生エネと共に原発の利用を続けるのか。針路を明確にする必要がある。
 事故後の12年に政権を奪還した自民党と公明党の連立政権は原発を「可能な限り依存度を低減」しつつ「最大限活用する」との曖昧な姿勢を続けている。
 原発そのものへの不安や、推進してきた官業一体の「原子力ムラ」への不信は根強い。国民の多くが脱原発を望んでいるのは世論調査などで明らかだ。
 事故後に全て停止した原発の再稼働は9基にとどまる。原子力規制委員会の審査もあるが、地元自治体の同意が得られないことが大きい。その根底には、10年前の反省や教訓が十分に生かされていない-との思いが広がっているのではないか。
 経済界には電力の安定供給のために原発の新増設を求める声がある。ただ事故後に求められるようになった安全対策費が膨らみ、原発の経済性は悪化している。世界では風力発電など再生エネのコストが下がり、旧来型の原発は安全神話だけでなく低コストも過去のものだ。

■行き詰まる国の政策
 国の原子力政策は行き詰まりの様相を強めている。使用済み核燃料を再処理して取り出したプルトニウムを高速増殖炉で活用する核燃料サイクル政策は、高速増殖原型炉もんじゅの廃炉で事実上破綻した。
 青森県六ケ所村に建設中の再処理工場は完成が遅れ、各地の原発には使用済み核燃料がたまる一方だ。保管場所が埋まれば原発を止めざるを得ない。再処理工場が稼働したとしても、プルトニウムを含む混合酸化物(MOX)燃料を安定的に消費できるかは疑わしい。
 核のごみの行方も決まっていない。北海道の寿都(すっつ)町と神恵内(かもえない)村で最終処分場建設に向けた文献調査が始まったものの、調査には20年ほどかかる見込みだ。道や近隣自治体の反発は強く、順調に進む保証はない。
 福島第1原発では放射性物質トリチウムを含む処理水の処分が焦点だ。風評被害の懸念から海洋放出を先送りしている。
 エネルギーの原発回帰には積み残しの課題が多すぎる。政府に決断を迫る国民の「覚悟」が問われている。