社説太平洋戦争開戦80年 いかに記憶を引き継ぐか
                               2021年12月6日 佐賀新聞

 まもなく12月8日、太平洋戦争の開戦から80年の節目を迎える。なぜ、あの無謀な戦争に日本は突き進んだのだろうか。
 真珠湾攻撃の翌日、佐賀合同新聞は「政府と皇軍に激励電」の見出しで県議会が開戦を支持した動きを報じるとともに、「日米開戦の報に興奮と緊張のルツボと化していく街」と開戦に熱狂する市民の声を伝えている。
 元内閣官房副長官の古川貞二郎さん(87)=佐賀市大和町出身=が、佐賀の文化冊子『草茫々(くさぼうぼう)通信』に、当時を振り返った手記を寄せている。
 国民学校の1年生。8日の夕方は父親に連れられて提灯(ちょうちん)行列に参加し、一生懸命に日の丸の小旗を振る。「日本中が戦勝気分で沸きかえっていた。闇の中で溢(あふ)れかえった人人人の波。たくさんの提灯。天を突き上げる大歓声。私は父から離れないよう父の手をしっかり握りしめていた」
 日米の圧倒的な国力の差から目をそらして踏み切った戦争は、わずか4年後に悲劇的な敗戦を迎える。戦死した日本人は、軍人・軍属が約230万人、民間人が約80万人、合わせて約310万人に上る。古川さんは「戦争で亡くなった約310万の日本人のうち、その9割が(昭和)19年以降の戦争末期に集中している」と指摘しつつ、「日本という国は何事かを遂行する能力をすべて失ってしまっても止めることができず、無為無策のまま何事かを続行する性向を持った国ではないか」と問いかける。

 その問いに明確な答えはないのかもしれない。だが、私たちはこの先も問いかけ続けなければならない。

 戦地の兵士たちは苛烈な状況に放り込まれた。
 フィリピンやインドネシアで戦った佐賀市の太田清次さん(100歳)の体験談を今年、地元自治会前会長の松尾勝さん(78)が聞き取って小冊子にまとめている。

 「我が歩兵中隊は、暑さと赤道直下の病気マラリアと食事事情に苦しんだ」。帰国できたのは敗戦から1年半もたってから。その間も「マラリアと空腹のために、毎日数名の戦友が異土の土と化していった。ジャングルは大木の枝が爆撃のため払い落とされていた、だがその隙間からきらめく南十字星を拝むことが出来た。暑い中、飢えと病魔に悩まされた」。迎えの船を待つ間も、一つ、また一つと命が失われ続けたのだという。
 振り返れば今年は、戦争にまつわる証言にふれる機会が目立った。戦争体験者たちの、何としても自らの体験を伝えたいという強い願いの表れだろう。
 10月には、核兵器廃絶を訴え続けた日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員の坪井直(すなお)さんが亡くなった。「ネバーギブアップ」を信条に「ノーモアヒバクシャ」と訴え続けた生涯。2016年に現職の米大統領として初めて広島を訪れたオバマ氏と握手を交わした場面は、明るい未来への期待を抱かせた。
 だが、今、世界に目を向ければ、戦争の危うさは一段と高まっているようにさえ思える。戦争体験をどう引き継ぎ、未来の平和へ生かすか。開戦から80年。あの戦争の記憶を、次の世代に引き継ぐ努力は止めるわけにはいかない。(古賀史生)

 社説日米開戦80年 サダコの鶴が架ける橋
                               2021年12月8日 朝日新聞

 80年前のきょう、日本は米英両国に宣戦を布告した。
 中国大陸での戦闘が泥沼化するなか、なぜ新たな無謀な戦争に突き進んだのか。政府が情報を隠し、自由を縛り、市民から主体的に判断する力を奪ったとき、国はいかに道を誤るか。
 当時を知る人が少なくなったいまこそ、歴史を検証し、教訓を引き出す営みは、いっそう重要になっている。
 あわせて、国を超えて平和の尊さを次代に語り継ぎ、友好を確かなものにすることも、現代を生きる者の大切な務めだ。
 戦争の悲惨さを象徴するふたつの場所――日本軍の奇襲を受けて兵士や住民ら2400人以上が命を落としたハワイ・真珠湾と、史上初めて原爆が落とされた広島とを結んで、手を携える日米の市民がいる。
 佐々木雅弘さん(80)、祐滋(ゆうじ)さん(51)親子は8年前、真珠湾攻撃で沈んだ米戦艦の乗組員らを追悼する国立施設に1羽の折り鶴を贈り、展示された。
 雅弘さんの妹禎子(さだこ)さんは広島で被爆。10年後、白血病を発症して12歳の若さで亡くなった。回復を祈り、薬の包み紙などで千羽鶴を折り続けた話は、広く世界で知られる。寄贈されたのはその1羽だった。
 橋渡しをしたのは元米紙記者のクリフトン・トルーマン・ダニエルさん(64)。日本への原爆の投下を承認したトルーマン大統領の孫である。
 戦争の終結を早め、多くの米兵の命を救ったという原爆観を、ダニエルさんは長く疑わなかった。しかし、息子の教科書で禎子さんの物語にふれ、考えが変わり始めた。佐々木さん親子に会い、広島・長崎で被爆者から話を聞いて、原爆の悲劇を米国で伝えることが、自らの責務だと思うようになった。
 寄贈について、被爆地では外交問題になりかねないと懸念する声もあった。それでも佐々木さん親子は「鶴が被爆の実相を知ってもらうきっかけになれば」と考え、米施設側も思いを共有してくれたという。

 話はこれだけで終わらない。

 ダニエルさんと佐々木さんらは今年初め、NPO「オリヅル基金」を米国に設立した。両国の教育者や子どもたちが真珠湾と被爆地を訪れ、双方の歴史に触れる活動の資金づくりにと、寄付を呼びかける予定だ。やがては交流の輪を中国や韓国にも広げる夢をもつ。
 戦意を高揚させるための標語「リメンバー・パールハーバー」は、多くの悲しみ、苦しみを経て、核の廃絶と平和を希求する「ノーモア・ヒロシマ」の訴えに至った。12月8日を、その道のりを振り返り、今後に思いを致す日としたい。

 社説日米開戦80年 自己過信の危うさ教訓に
                               2021年12月8日 毎日新聞

 太平洋戦争の開戦から80年を迎えた。旧日本軍による米ハワイ・真珠湾への奇襲攻撃で戦端が開かれ、4年後、米軍による広島と長崎への原爆投下で終戦に至った。
 戦火はアジア全体に広がり、犠牲者は日本人310万人、アジアでは2000万人を超えた。
 開戦前夜、日米の国力の差は明らかで持久戦には耐えられないとの分析がいくつもあったという。
 なぜ無謀な戦争に走ったのか。軍部の暴走、政治の機能不全、外交の失敗、メディアの扇動。さまざまな要因が重なって負の連鎖に陥ったのが実相だろう。敗戦の教訓を今に生かす必要がある。
 日米開戦を警告した著書「日本の禍機」(1909年刊)で歴史学者の朝河貫一は、日露戦争後の領土拡張政策が日本の孤立を招くと訴えた。半世紀にわたり友好関係にあった米国は日本を警戒し、「仇敵(きゅうてき)とならんとするの運命」の岐路にあると指摘した。
 だが、大国ロシアに勝利した日本は実力を過信する。自作自演の爆破事件から満州事変を起こし、日中戦争へと突き進んだ。列強支配の秩序を維持したい英米は中国を支援し、対立は決定的となる。
 対米開戦は、大恐慌による景気低迷と大国の包囲網による難局の打開が狙いだった。真珠湾攻撃に国民の意気は上がり、引き返せない泥沼の戦いにのみ込まれた。
 時代状況は今に通じる。経済的、軍事的に台頭する中国が戦後の国際秩序に挑戦し、米国は「民主主義と専制主義の闘い」と主張して中国包囲網を構築する。
 新型コロナウイルス禍で経済が疲弊し、格差が世界中で広がる。各地で排外的な論調が先鋭化し、感情的な政治的主張がソーシャルメディアを通じて増幅される。
 重要なのは、紛争を未然に回避する理性的な外交だ。協調を重視し平和的解決を目指す。その旗振り役を日本が担うべきだ。
 日米首脳が広島と真珠湾でそろって戦没者を慰霊したのはわずか5年前だ。広島では放射性物質を含む「黒い雨」を浴びた被爆者の救済がようやく決まり、ハワイでは身元不明遺骨のDNA鑑定事業が今年終わった。
 戦争の傷を癒やすには途方もない時間が要る。「不戦の誓い」が色あせることがあってはならない。

 社説開戦の日に考える 坂口安吾と憲法9条 
                               2021年12月8日 東京新聞

 作家坂口安吾(1906〜55年)は41(昭和16)年12月8日、太平洋戦争の開戦を、この年8月まで住んでいた神奈川県小田原の「ガランドウ」と呼ぶ友人宅で迎えました。

 安吾はこの日のことを戦後、こう振り返っています。

 <オカミサンが来て、なんだか戦争が始(はじま)つたなんて云(い)つてゐるよ、と言つたが、私は気にもとめず午(ひる)まで本を読んでゐて、正午5分前外へでゝ戦争のビラにぶつかり、床屋をでてガランドウに会つて二宮へ来てマグロを食ひ焼酎をのみ酔つ払つて別れて帰つてきたゞけであつた>(ぐうたら戦記)

 終戦の翌46(同21)年4月「落ちよ、生きよ」と説く「堕落論」で一躍人気作家となった安吾ですが、当時はまだ各地を転々として、文芸誌や都新聞(東京新聞の前身)などに寄稿して過ごす「放浪の時代」でした。

◆勝利夢見ず滅亡を確信

 開戦に高揚し、戦争を賛美する作家もいる中、安吾の振る舞いから高ぶる様子は感じられません。むしろ生活が日々窮屈になることを感じ、開戦の現実を冷徹に受け止めていたようです。
 <尤(もっと)も私は始めから日本の勝利など夢にも考へてをらず、日本は負ける、否、亡(ほろ)びる。そして、祖国と共に余も亡びる、と諦めてゐたのである><その日私は日本の滅亡を信じ、私自身の滅亡を確信した>(同)
 安吾は軍隊に召集されることを最も恐れていました。徴兵逃れのために、44(同19)年には日本映画社の嘱託となります。開戦時35歳という年齢もあって結局、徴兵されませんでした。
 かといって熱烈な反戦主義者でもなかったようです。例えば、43(同18)年、海軍の山本五十六元帥の訃報に接しては、こう書き残しています。
 <山本元帥の戦死とアッツ島の玉砕と悲報つづいてあり、国の興亡を担ふ者あに軍人のみならんや、一億総力をあげて国難に赴くときになつた>(現代文学「巻頭随筆」)
 開戦時には敗戦や国や自身の滅亡をも覚悟していた安吾ですが、戦況の悪化につれて自らを奮い立たせていたようでもあります。
 ただ、そこから読み取れるのは精神論ではなく、戦況を冷静に見つめる観察眼と洞察力です。
 <実際の戦果ほど偉大なる宣伝力はなく、又(また)、これのみが決戦の鍵だ。飛行機があれば戦争に勝つ。それならば、ただガムシャラに飛行機をつくれ。全てを犠牲に飛行機をつくれ。さうして実際の戦果をあげる><ただ、戦果、それのみが勝つ道、全部である>(同)
 当時、強いられていた精神力や大本営発表の欺瞞(ぎまん)を見抜き、必要なのは生産力や国民を鼓舞する実際の戦果という合理的思考です。
 今では当たり前ですが戦時中としては異色でしょう。本質を見抜き、実質を重んじる精神は、戦後「堕落論」などに実を結びます。
 堕落論の約半年後、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重を3大原則とする日本国憲法が公布されます。中でも安吾が高く評価したのが、国際紛争を解決する手段としての戦争と、陸海空その他の戦力を放棄した9条です。

◆戦争放棄活用が利口、と

 <私は敗戦後の日本に、二つの優秀なことがあったと思う。一つは農地の解放で、一つは戦争抛棄(ほうき)という新憲法の一項目だ><小(ち)ッポケな自衛権など、全然無用の長物だ。与えられた戦争抛棄を意識的に活用するのが、他のいかなる方法よりも利口だ>(文芸春秋「安吾巷談(こうだん)」)

 <軍備をととのえ、敵なる者と一戦を辞せずの考えに憑(つ)かれている国という国がみんな滑稽なのさ。彼らはみんなキツネ憑きなのさ><ともかく憲法によって軍備も戦争も捨てたというのは日本だけだということ、そしてその憲法が人から与えられ強いられたものであるという面子(メンツ)に拘泥さえしなければどの国よりも先にキツネを落(おと)す機会にめぐまれているのも日本だけだということは確かであろう>(文学界「もう軍備はいらない」)
 東西冷戦に突入し、核戦争の恐怖が覆っていた時代にもかかわらず、軍備増強より9条の精神を生かす方が現実的と喝破します。
 日本を取り巻く安全保障環境は厳しさを増していますが、9条改憲や防衛力増強が打開策なのか。本質を見抜く安吾の精神は古びるどころか、今なお新鮮味を持って私たちに問い掛けます。