ヒバクシャ 2021冬  中
 核廃絶へ不屈の精神 人任せにしない「坪井直さん以上に訴える」
                               2021年12月28日 毎日新聞

「世界に核の実相を知ってほしい」と語る坪井直さん=広島市中区の平和記念公園で
2009112日、小松雄介撮影
 
 新型コロナウイルスの影響で2年近く開催できなかった核拡散防止条約(NPT)再検討会議が202214日から米ニューヨークで始まる。核廃絶・軍縮に向けた国際的議論の活発化を期待し、記録報道「2021冬ヒバクシャ」の第2回では、ヒバクシャの遺志を受け継ぎ、足元で新たに動き出した人たちにスポットライトを当てたい。
 「不撓(ふとう)不屈 Never give up!」。式次第には、生前自ら筆書きした言葉が刷られ、会場にはありし日の笑顔が大写しにされていた。22日、広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)前理事長で、10月に96歳で死去した坪井直(すなお)さんのお別れ会。広島市の原爆資料館に約400人が集う中、20年以上活動を共にした副理事長の植田雅軌(まさのり)さん(90)が力強く述べた。「命ある限り死ぬまで、この運動を闘い抜く。世界平和のため、粉骨砕身の努力をしてまいります」。改めて誓いを立てた。
 だが、会場を出ると本音が漏れた。「坪井先生がおらんようなって、力が抜けたよ」。失った道しるべはあまりに大きく、高齢化が進む県被団協の活動にも不安が漂う。それでも前を向くのは、坪井さんが生前にくれた言葉があるからだ。
坪井直さんのお別れ会でお礼のあいさつをする植田雅軌さん=広島市中区で
20211222日、加古信志撮影


 「死ぬまで訴え続けんとダメじゃ。信念をもった人が一人でも多いほど、世界を動かすことができる」
 生涯「ネバーギブアップ」を貫いた人だった。坪井さんは米軍が原爆を投下した194586日当時20歳で、爆心地の南約12キロで被爆。戦後は県内の公立中学で教師を務め、子どもたちに被爆体験を伝えた。退職後は県被団協の中心を担い、20165月には米国の現職大統領で初めて広島を訪れたオバマ氏と対面。毎日新聞の記録報道「ヒバクシャ」でも、繰り返し核廃絶を訴えた。
 「生死を越えた体験、生きてきた苦しさを語り合った」。そう述懐する植田さんは、爆心地の西約12キロ、方角は違えど坪井さんと同じ距離で被爆した。現在の広島市西区にあった軍需工場内にいて、頭にはガラスの破片が7カ所に突き刺さり、血まみれで逃げた。一方の坪井さんは路上で、熱線と閃光(せんこう)を直接浴びて全身やけどを負い、約40日間意識を失った。植田さんは、坪井さんに敬意を抱いてきた。「立ち上がり、闘い続ける底力がどこから来るんか……その神髄を知りたかった」。坪井さんのまねはとてもできない、と首を振った。

亡くなった坪井直さんへのインタビュー記事を収録した冊子を前に思いを語るGUYこと大小田伸二さん=広島市中区で2021127日、猪飼健史撮影

 がんを患って腎臓を摘出した植田さんは今も毎日通院する。だが、坪井さんは言っていた。「病気しようが年をとろうが、核廃絶の仕事はなくなりゃせんのじゃ」。坪井さんの笑顔に、「生きとる間は頑張りますけえ」と語りかけた。
 次世代にも動きは広がる。07年から毎夏、坪井さんにインタビューを続けてきた広島のパンクバンドボーカルのGUYこと大小田(おおこだ)伸二さん(56)は221月、追悼展示会を開く。「『ポスト坪井』となる被爆者を待ってる時点でダメ。また人任せかよ?」とストレートに呼びかける。
 パンクロックは「反戦」をテーマとした楽曲も多く、反核運動に関心を持った。坪井さんに出会い、「どうやったら核兵器を実際に減らせるか」と真剣に考えるように。「実体験のない僕たちの力は弱くても、みんなで集まって坪井さん以上に訴えないと」
 坪井さんの活動は「何発かの核兵器を減らしただろう」と感じているGUYさん。「僕も、生きている間に一発は減らしたと言いたい。坪井さんの生き様を伝え、若い世代に反核意識を広めていく」。坪井さんがのこした「ネバーギブアップ」との言葉に背中を押され、立ち上がる人たちが思いをつなでいく。【小山美砂】