●再出発へ反省と議論を 松井孝治・慶応大総合政策学部教授
立憲民主党と共産党の選挙協力に、戦術面でのメリットがあったことは確かだろう。共産との協力がなければ、自民党の幹事長だった甘利明氏を小選挙区で破ることはできなかったと思う。風向きによっては、今回の獲得議席より30議席ほど増える可能性もあった。
ところが立憲は公示前より議席を減らし、「枝野立て」という人々の言葉に押されて「創業」した枝野幸男前代表は辞任した。リベラル勢力の受け皿としての役割を十分に果たせず、立憲の「火」は消えかかってしまっている。
枝野氏は賢明な人だ。今回の選挙で一気に政権交代まで行けると考えていたとは思えない。立憲の組織力の弱さを他党との協力で補い、まずは政権批判勢力としての足場を固め、その次の衆院選で政権交代を目指すという2段階シナリオを描いていたのではないか。
問題は、連携相手として選んだのが左派政党の共産だったということだ。幅広く支持される「国民政党」を目指すのであれば、右でも左でもない中間層の有権者を引き付けることが不可欠で、基礎票の補完を求める連携相手も中道政党であることが望ましい。
なのに、野球で言えば(バッターから見て一番左側の)三塁線上の政治勢力の力を借りてしまった。一定の基礎票は得たものの、センターから左中間あたりにいて「今の政治のままではよくない」と考える中間層の人たちの不信を招き、多くの票を失った。
立憲の「自分たちはこんな社会をつくりたいんだ」という発信の不足もマイナスに働いた。理念や政策より野党共闘の共通項である「脱・自公政権」を訴える方がプラスと判断したのだろうが、大義がなければ「何かにつけ文句をつける近所の嫌われ者」的な存在と見られてしまう。立憲側の発信が弱いことで、共産が掲げた「政権交代」や「限定的閣外協力」という看板ばかりが目立ち、有権者に警戒心を抱かせてしまった。
一部の立憲議員は元々、こうした野党共闘の在り方に納得していなかった。選挙結果が出るまで口をつぐんでいただけで、あるベテラン議員は「これほど執行部との距離を感じたのは自分の政治生活で初めて」とぼやいていた。現行の小選挙区制の下では、公認権を握る党執行部の力は絶大で、波風を立てるより沈黙は金だったのだろうが、組織としては典型的な「負けパターン」だ。
枝野氏が責任を取って代表を辞任したのはまだ潔かった。同じく議席を減らした共産の志位和夫委員長は、自らについて「責任はない」と明言し、今もポストにとどまっている。指導層の方針は正しく、結果が出ないのは大衆の無理解ないし時代の先取りに大衆が追い付いていないからだと考える勢力とは一線を画したとは思う。
ただし、立憲が幅広い支持を得られなかった事実を直視しているかは疑問だ。自民は2009年に下野した際、当時の谷垣禎一総裁が全都道府県を行脚し、支持基盤からの厳しい声に耳を傾けるとともに党綱領も見直した。枝野氏が各地の支持者に向き合い、話を聞くプロセスはあってしかるべきだ。そうした反省のプロセスがあって初めて、本当の意味での再出発ができるのではないか。
代表選では、今後の共産との関係が一つの争点になるのだろう。共産の支援無しでは戦えないと考える議員は、協力の継続を望むはずだ。逆に共産と組んだことで中間層が日本維新の会などに流れたと考える議員は、国民民主党や維新への接近を模索するかもしれない。双方の対立が深まり、最終的には党が割れる可能性もある。
だが、代表選は党の立ち位置を見直すチャンスでもある。親米か反米か、経営者側か労働者側かといった「55年体制」の下での二項対立は過去のものになりつつある。今求められているのは、外国との交流が盛んになるよう国を開くのかどうか、さまざまな人が行政に参画できるよう中央の「官」を開くのかどうか、年功序列を維持するのかどうかといった議論であり、野党は一石を投じられるはずだ。「ポスト55年体制」を見据えた議論が盛んに行われることを期待している。【聞き手・青木純】
■人物略歴
中野晃一(なかの・こういち)氏
1970年生まれ。東京大、英オックスフォード大卒。米プリンストン大で博士号(政治学)取得。上智大国際教養学部教授。野党共闘を仲介する市民連合の運営委員。専門は比較政治学、日本政治。
松井孝治(まつい・こうじ)氏
1960年生まれ。東京大卒。通産省(現・経済産業省)や首相官邸などで勤務した後、2001年参院選で京都選挙区から旧民主党公認で立候補し、初当選。09年鳩山内閣で官房副長官に就任。13年に政界を引退。
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