●(社説)原爆投下から75年:上 核抑止依存から脱する時だ
2020年8月5日 朝日新聞
広島はあす、被爆75年を迎える。米軍が投下した原爆による未曽有の殺傷と破壊は、核時代の始まりを人類史に刻んだ。
その恐怖を象徴してきた一つの物差しがある。米国の専門誌「原子力科学者会報」が、広島・長崎原爆の2年後から発表してきた「終末時計」だ。
核による人類滅亡までの残り時間を見積もり、針が動く。今年1月、過去最悪となる「残り100秒」まで来てしまった。
■一触即発のリスク
核の拡散防止や軍縮の枠組みが揺らぎ、サイバーや宇宙も絡んで軍拡が進む。米国と中国の「新冷戦」など、大国間の競争が再来したともいわれる。
あの惨禍から75年という時を隔て、「核の復権」という言葉さえ飛び交う現実に、日本と世界はどう向き合えばいいのか。
何が世界の脅威か、予想は実に難しい。そう痛感させる出来事が今年、起きた。新型コロナによる感染症である。
目に見えないが国境を越え、人間を分け隔てなく脅かす存在を、誰もが実感した。一方で、その間も、途方もない数で存在する核兵器による「終末への秒読み」は止まっていない。
ウイルスは、たとえ人類が団結してもすぐには消えない。だが、核の脅威は人間が生み出したものだ。リスクを減らすための確固たる政治的決断があれば、変えられる。
今月、長崎での国際平和シンポジウムにオンライン参加したペリー元米国防長官は「文明が今後も存続するのか、運まかせにしてはならない」と戒めた。
大半の核兵器は、一触即発の臨戦態勢に置かれている。戦争の意図がなくとも、偶発や誤算から核攻撃の応酬がおきる危うさと隣り合わせだ。そんな態勢が続く土台には、核抑止の考え方がある。「もし敵の核攻撃を受けたなら、必ず核で報復し滅ぼす」と互いに脅し合う。それで逆説的に安全が保たれるという理屈だ。
そこには本質的に矛盾がつきまとう。国家同士が不信に基づき、大量破壊兵器を突きつけ合う限り、互いの警戒心が軍拡を促し、リスクは高まる。
ひとたび「恐怖の均衡」が崩れれば、ミサイルの標的の下に置かれる一人ひとりにとって、核兵器は助けにならない。
■「人間の安全保障」へ
いまこそ、抑止論にもとづく安全保障の概念を根源から問い直すときだ。紛争に対応する軍事力の役割はあるにせよ、軍事一辺倒の「安全」確保には限界がある。
人間の命を脅かす多種多様なリスクを総合的に捉え、持続可能な資源配分を考える。国家主体でなく、生身の人々の暮らしと命に着目する「人間の安全保障」への転換が求められる。
気候変動対策や医療支援などを進め、地球規模で均衡のとれた安定的発展を図る。そのために多国間で協調する枠組みこそが世界の安全に欠かせない。
その点で、核保有国の考え方は逆行している。
コロナ禍で世界最悪の被害を出している米国は、核軍備支出で世界のほぼ半分を占める。核廃絶キャンペーン組織「ICAN(アイキャン)」によると、その支出を感染症対策に向ければ、集中治療室30万床、人工呼吸器3万5千台、医師7万5千人と看護師15万人が確保できるという。
大国だけではない。北朝鮮など冷戦後に核開発に走った国々は、いずれも医療水準に問題を抱えている。そんな矛盾を変えていくためにも、まず世界の核兵器の9割を専有する米国とロシアが削減に動くべきだ。
■核禁条約に関与を
両国に残る唯一の核軍縮ルールである新戦略兵器削減条約(新START)は、来年2月に期限を迎える。青天井の軍拡を防ぐために、両政府は延長の合意を結ばねばならない。
リスクの削減策として、核の「先制不使用」宣言や警戒態勢の緩和も実行すべきだろう。
やがては中国を巻き込む軍縮体制づくりを急ぐ必要があるが、それには米ロが行動を始めなければ道は開けない。
「核兵器は非人道的であり、二度と使わせてはならない。その唯一の道は、国際法で違法な存在と位置づけることだ」。3年前に採択された核兵器禁止条約には、そんな認識がある。
批准国は着実に増え、年内の発効もありえる段階まで来た。広島・長崎の被爆者が我が身をあかしに長年訴えてきたことが国際的に定着し、違法化にまで至ろうとしている。
だが日本政府は、日米安保条約で米国の核による拡大抑止、いわゆる「核の傘」の下にいることを理由に、条約に背を向けている。狭い安全保障観にとらわれ、真の国際潮流から目を背ける態度というほかない。
日本は核保有国と非保有国との橋渡し役を自任している。ならばなおさら、核禁条約への加盟を視野に関与すべきだ。加えて、核保有国に先制不使用の宣言や、多国間の核軍縮交渉を促す。そうした努力こそが戦争被爆国としての責務である。
●(社説)原爆投下から75年:下 非人道を拒む連帯さらに
2020年8月6日 朝日新聞
「広島を焼爆」「若干の損害を蒙(こうむ)った模様」……
広島に原子爆弾が投下された翌日、朝日新聞の記事(東京本社発行版)はごく短かった。
それは、世界で初めて起きた核戦争の悲劇の始まりだった。3日後、長崎の街も壊滅する。
ピカッと光った瞬間、放射線は何十万人もの体を射抜いた。ドンという爆発で飛び散った放射性物質は「黒い雨」となって降り、爆心地周辺に漂った。
それから75年。国の援護の外に置かれた「黒い雨体験者」を被爆者と認めた裁判でも、降雨エリアは確定していない。
■放射線被害の「発見」
あの日、きのこ雲の下にいた人々も、直後に原子野に足を踏み入れた人々も、誰も原爆の本当の恐ろしさを知らなかった。
放射線が時を超えて人間を苦しめ続けることなど、ふつうの市民は知るよしもなかった。
その脅威が広く知られるのは戦後9年目の1954年。米国が太平洋のビキニ環礁で強行した水爆実験によってだった。
遠洋漁船・第五福竜丸が「死の灰」を浴び、被曝(ひばく)した乗組員がのちに死亡する。「原爆マグロ」は食卓にいらないと、東京・杉並の主婦らが立ち上がって反核運動のうねりが起きた。
その翌年、初の原水爆禁止世界大会が広島で開かれた。白血病が急増していた被爆地では、時を同じくして、「千羽の折り鶴」の逸話で知られる佐々木禎子(さだこ)さん(当時12)が亡くなる。
爆風と熱線の惨禍を生き抜いた被爆者の多くも、自らの放射線被曝の恐怖に気づかされる。
そして56年、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)ができ、被爆の後遺症への補償を国に求める運動が始まった。
その宣言文「世界への挨拶(あいさつ)」はうたう。「人類は私たちの犠牲と苦難をまたふたたび繰り返してはなりません」
核兵器を絶対悪とし、国や地域を超えて非人道性の撲滅を訴える「ヒバクシャの思想」が、ここに芽を吹いた。
■強まる悲観と危機感
「ノーモア・ヒバクシャ!」
米ソ冷戦下の82年に国連の舞台でそう訴えて以来、被爆者は過酷な体験の証言と思いを国際社会へ投げかけてきた。
それは国際世論に広がり、2017年、核兵器の使用も保有も違法とする核兵器禁止条約の採択につながった。
だが、核保有国と日本を含む同盟国は条約に背を向け続けている。さらに大国は、新たな核軍拡へも進み始めている。
被爆者たちが悲観を強めるのは無理からぬことだ。朝日新聞が全国の被爆者2千人余に実施した「被爆75年アンケート」(回答768人)は、もどかしさと焦りを浮き彫りにした。
核兵器は廃絶される方向にないと考える人は半数以上、核が使われる危険性はこの5年で増したと思う人が6割を超えた。米国の首脳が、「核なき世界」を唱えたオバマ氏から、「力の平和」を掲げるトランプ氏になった影響もあろう。
だが、厳しい視線は自国にも向けられている。日本政府は核兵器廃絶に積極的だと思わない人が、8割近くに達した。日本は核禁条約を批准すべきだという答えが7割超。条約への不参加は「世界史の中で恥を残す」と嘆く92歳の男性もいた。
平均83歳、過去最少の13万6682人。被爆75年とは、核の恐ろしさを身をもって伝えてきた人たちがいなくなる時代の訪れを意味する。同時に、被爆者の危機感を次世代は我がことにできるかが問われている。
■思想を継ぐ担い手に
この節目の年、世界は底知れぬコロナ禍に見舞われた。
「世界中の人々が同じ危機に直面し、みんなが当事者だと自覚するきっかけになった」
田上(たうえ)富久・長崎市長は5月、研究者との対談でそう語り、この経験が核廃絶運動の新たな出発点になるとの考えを示した。
被爆地での平和学習や証言を直に聞く機会をコロナ禍は奪ったが、逆にこれを機にオンラインの活用が加速している。
広島平和記念資料館と長崎原爆資料館が7月下旬、初めてSNSのライブ配信で被爆資料を紹介したところ、世界の若者ら6千人超が見つめた。
国民学校の亡き学友らと一緒に使った鉛筆約30本を広島の資料館に託した被爆者の新見博三(にいみひろそう)さん(81)は言う。「世界中の若い世代にヒロシマを正しく知ってもらうことが力になる」
人類が核の時代に突入して75年。核保有国、そして日本政府すらもがいまだに大量破壊に基づく核抑止論に拘泥する現実は深い失望をさそう。
しかし一方で、被爆者らの積年の訴えは、非核国に、NGOに、世界市民に、着実に浸透を続けてきた。核禁条約に結実した国際的な連帯こそが、被爆者が築いた貴重な遺産である。
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