(社説)原爆投下から75年:上 核抑止依存から脱する時だ

                                 2020年8月5日 朝日新聞
 広島はあす、被爆75年を迎える。米軍が投下した原爆による未曽有の殺傷と破壊は、核時代の始まりを人類史に刻んだ。
 その恐怖を象徴してきた一つの物差しがある。米国の専門誌「原子力科学者会報」が、広島・長崎原爆の2年後から発表してきた「終末時計」だ。
 核による人類滅亡までの残り時間を見積もり、針が動く。今年1月、過去最悪となる「残り100秒」まで来てしまった。

 ■一触即発のリスク
 核の拡散防止や軍縮の枠組みが揺らぎ、サイバーや宇宙も絡んで軍拡が進む。米国と中国の「新冷戦」など、大国間の競争が再来したともいわれる。
 あの惨禍から75年という時を隔て、「核の復権」という言葉さえ飛び交う現実に、日本と世界はどう向き合えばいいのか。
 何が世界の脅威か、予想は実に難しい。そう痛感させる出来事が今年、起きた。新型コロナによる感染症である。
 目に見えないが国境を越え、人間を分け隔てなく脅かす存在を、誰もが実感した。一方で、その間も、途方もない数で存在する核兵器による「終末への秒読み」は止まっていない。
 ウイルスは、たとえ人類が団結してもすぐには消えない。だが、核の脅威は人間が生み出したものだ。リスクを減らすための確固たる政治的決断があれば、変えられる。
 今月、長崎での国際平和シンポジウムにオンライン参加したペリー元米国防長官は「文明が今後も存続するのか、運まかせにしてはならない」と戒めた。
 大半の核兵器は、一触即発の臨戦態勢に置かれている。戦争の意図がなくとも、偶発や誤算から核攻撃の応酬がおきる危うさと隣り合わせだ。そんな態勢が続く土台には、核抑止の考え方がある。「もし敵の核攻撃を受けたなら、必ず核で報復し滅ぼす」と互いに脅し合う。それで逆説的に安全が保たれるという理屈だ。
  そこには本質的に矛盾がつきまとう。国家同士が不信に基づき、大量破壊兵器を突きつけ合う限り、互いの警戒心が軍拡を促し、リスクは高まる。
 ひとたび「恐怖の均衡」が崩れれば、ミサイルの標的の下に置かれる一人ひとりにとって、核兵器は助けにならない。

 ■「人間の安全保障」へ
 いまこそ、抑止論にもとづく安全保障の概念を根源から問い直すときだ。紛争に対応する軍事力の役割はあるにせよ、軍事一辺倒の「安全」確保には限界がある。
 人間の命を脅かす多種多様なリスクを総合的に捉え、持続可能な資源配分を考える。国家主体でなく、生身の人々の暮らしと命に着目する「人間の安全保障」への転換が求められる。
 気候変動対策や医療支援などを進め、地球規模で均衡のとれた安定的発展を図る。そのために多国間で協調する枠組みこそが世界の安全に欠かせない。
 その点で、核保有国の考え方は逆行している。
 コロナ禍で世界最悪の被害を出している米国は、核軍備支出で世界のほぼ半分を占める。核廃絶キャンペーン組織「ICAN(アイキャン)」によると、その支出を感染症対策に向ければ、集中治療室30万床、人工呼吸器3万5千台、医師7万5千人と看護師15万人が確保できるという。
 大国だけではない。北朝鮮など冷戦後に核開発に走った国々は、いずれも医療水準に問題を抱えている。そんな矛盾を変えていくためにも、まず世界の核兵器の9割を専有する米国とロシアが削減に動くべきだ。

 ■核禁条約に関与を
 両国に残る唯一の核軍縮ルールである新戦略兵器削減条約(新START)は、来年2月に期限を迎える。青天井の軍拡を防ぐために、両政府は延長の合意を結ばねばならない。
 リスクの削減策として、核の「先制不使用」宣言や警戒態勢の緩和も実行すべきだろう。
 やがては中国を巻き込む軍縮体制づくりを急ぐ必要があるが、それには米ロが行動を始めなければ道は開けない。
 「核兵器は非人道的であり、二度と使わせてはならない。その唯一の道は、国際法で違法な存在と位置づけることだ」。3年前に採択された核兵器禁止条約には、そんな認識がある。
 批准国は着実に増え、年内の発効もありえる段階まで来た。広島・長崎の被爆者が我が身をあかしに長年訴えてきたことが国際的に定着し、違法化にまで至ろうとしている。
 だが日本政府は、日米安保条約で米国の核による拡大抑止、いわゆる「核の傘」の下にいることを理由に、条約に背を向けている。狭い安全保障観にとらわれ、真の国際潮流から目を背ける態度というほかない。
 日本は核保有国と非保有国との橋渡し役を自任している。ならばなおさら、核禁条約への加盟を視野に関与すべきだ。加えて、核保有国に先制不使用の宣言や、多国間の核軍縮交渉を促す。そうした努力こそが戦争被爆国としての責務である。

(社説)原爆投下から75年:下 非人道を拒む連帯さらに

                                2020年8月6日  朝日新聞
 「広島を焼爆」「若干の損害を蒙(こうむ)った模様」……
 広島に原子爆弾が投下された翌日、朝日新聞の記事(東京本社発行版)はごく短かった。
 それは、世界で初めて起きた核戦争の悲劇の始まりだった。3日後、長崎の街も壊滅する。
 ピカッと光った瞬間、放射線は何十万人もの体を射抜いた。ドンという爆発で飛び散った放射性物質は「黒い雨」となって降り、爆心地周辺に漂った。
 それから75年。国の援護の外に置かれた「黒い雨体験者」を被爆者と認めた裁判でも、降雨エリアは確定していない。

 ■放射線被害の「発見」
 あの日、きのこ雲の下にいた人々も、直後に原子野に足を踏み入れた人々も、誰も原爆の本当の恐ろしさを知らなかった。
 放射線が時を超えて人間を苦しめ続けることなど、ふつうの市民は知るよしもなかった。
 その脅威が広く知られるのは戦後9年目の1954年。米国が太平洋のビキニ環礁で強行した水爆実験によってだった。
 遠洋漁船・第五福竜丸が「死の灰」を浴び、被曝(ひばく)した乗組員がのちに死亡する。「原爆マグロ」は食卓にいらないと、東京・杉並の主婦らが立ち上がって反核運動のうねりが起きた。
 その翌年、初の原水爆禁止世界大会が広島で開かれた。白血病が急増していた被爆地では、時を同じくして、「千羽の折り鶴」の逸話で知られる佐々木禎子(さだこ)さん(当時12)が亡くなる。

 爆風と熱線の惨禍を生き抜いた被爆者の多くも、自らの放射線被曝の恐怖に気づかされる。
 そして56年、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)ができ、被爆の後遺症への補償を国に求める運動が始まった。
 その宣言文「世界への挨拶(あいさつ)」はうたう。「人類は私たちの犠牲と苦難をまたふたたび繰り返してはなりません」
 核兵器を絶対悪とし、国や地域を超えて非人道性の撲滅を訴える「ヒバクシャの思想」が、ここに芽を吹いた。

 ■強まる悲観と危機感

 「ノーモア・ヒバクシャ!」
 米ソ冷戦下の82年に国連の舞台でそう訴えて以来、被爆者は過酷な体験の証言と思いを国際社会へ投げかけてきた。
 それは国際世論に広がり、2017年、核兵器の使用も保有も違法とする核兵器禁止条約の採択につながった。
 だが、核保有国と日本を含む同盟国は条約に背を向け続けている。さらに大国は、新たな核軍拡へも進み始めている。
 被爆者たちが悲観を強めるのは無理からぬことだ。朝日新聞が全国の被爆者2千人余に実施した「被爆75年アンケート」(回答768人)は、もどかしさと焦りを浮き彫りにした。
 核兵器は廃絶される方向にないと考える人は半数以上、核が使われる危険性はこの5年で増したと思う人が6割を超えた。米国の首脳が、「核なき世界」を唱えたオバマ氏から、「力の平和」を掲げるトランプ氏になった影響もあろう。
 だが、厳しい視線は自国にも向けられている。日本政府は核兵器廃絶に積極的だと思わない人が、8割近くに達した。日本は核禁条約を批准すべきだという答えが7割超。条約への不参加は「世界史の中で恥を残す」と嘆く92歳の男性もいた。
 平均83歳、過去最少の13万6682人。被爆75年とは、核の恐ろしさを身をもって伝えてきた人たちがいなくなる時代の訪れを意味する。同時に、被爆者の危機感を次世代は我がことにできるかが問われている。

 ■思想を継ぐ担い手に
 この節目の年、世界は底知れぬコロナ禍に見舞われた。
 「世界中の人々が同じ危機に直面し、みんなが当事者だと自覚するきっかけになった」
 田上(たうえ)富久・長崎市長は5月、研究者との対談でそう語り、この経験が核廃絶運動の新たな出発点になるとの考えを示した。
 被爆地での平和学習や証言を直に聞く機会をコロナ禍は奪ったが、逆にこれを機にオンラインの活用が加速している。
 広島平和記念資料館と長崎原爆資料館が7月下旬、初めてSNSのライブ配信で被爆資料を紹介したところ、世界の若者ら6千人超が見つめた。
 国民学校の亡き学友らと一緒に使った鉛筆約30本を広島の資料館に託した被爆者の新見博三(にいみひろそう)さん(81)は言う。「世界中の若い世代にヒロシマを正しく知ってもらうことが力になる」
 人類が核の時代に突入して75年。核保有国、そして日本政府すらもがいまだに大量破壊に基づく核抑止論に拘泥する現実は深い失望をさそう。
 しかし一方で、被爆者らの積年の訴えは、非核国に、NGOに、世界市民に、着実に浸透を続けてきた。核禁条約に結実した国際的な連帯こそが、被爆者が築いた貴重な遺産である。

 (社説)原爆投下から75年/核廃絶へ協調の再構築を
                            2020年8月6日  北海道新聞

  広島はきょう、長崎は9日、75回目の原爆の日を迎える。

 たった1発で広島は約14万人、長崎では約7万4千人が、その年のうちに亡くなった。被爆者健康手帳を持つ全国の被爆者は3月末時点で約13万6千人で、今も放射線の後遺症に苦しむ人は多い。
 核兵器は瞬時に大勢の人を無差別に殺傷する絶対悪であり、人類の脅威だ。被爆者たちのこの訴えが国際社会の意識を変えてきた。

 それが結実したのが3年前、国連加盟国の3分の2の賛成で採択された、核兵器の保有や使用を全面禁止する核兵器禁止条約だ。
 だが、核廃絶に向けた希望は一変した。新型コロナウイルス禍で国際協調の機運衰退が加速し、米中、米ロの対立が深まった。相互不信が軍拡を進め、核の脅威はかつてなく高まっている。
 危機の打開は協調なくしてあり得ない。唯一の戦争被爆国である日本には主導する責務がある。
 節目の年を迎え、そのことを改めて決意する日にしたい。

■危険性は過去最悪に

 核戦争の危険性は冷戦期より差し迫り、過去最悪の水準―。
 米科学誌は今年1月、地球最後の日までの残り時間を見積もる「終末時計」について、その針を20秒進めて残り100秒とした。
 危機を招いた要因は核大国の指導者にある。筆頭は自国第一主義を掲げ、核軍縮枠組みを軽視するトランプ米大統領だろう。
 米ロの中距離核戦力(INF)廃棄条約は失効した。唯一残る米ロの新戦略兵器削減条約(新START)の延長にも消極的で、来年2月に期限が切れかねない。
 しかも、従来の核兵器は破壊力が大きすぎて使用しづらいとし、「使える核兵器」と称される小型核の開発を推進した。
 トランプ氏は、75年前に行われた人類史上初の核実験を「素晴らしい偉業」だったと称賛した。核兵器の非人道性を完全に度外視している。
 対抗して中国は、地上発射型中距離ミサイルの開発を加速し、核戦力の近代化に積極的だ。ロシアは核攻撃の基準を緩和し、極超音速の新型兵器の開発を進める。
 米朝交渉が停滞する中、北朝鮮は核増強をひそかに進めている。米国と緊張を高めるイランも、核開発を加速させつつある。
 核兵器が恐ろしいのは、核戦争の意志がなくても、誤作動や誤認で偶発的な攻撃が起きかねないことである。身勝手な核開発競争は、自らも破滅させかねない愚行であると自覚する必要がある。

■安倍政権に批判強く

 今年は核拡散防止条約(NPT)の発効50年でもある。核保有を米英仏ロ中の5カ国に限り、核軍縮へ誠実な交渉を義務づけた。核拡散に一定の歯止めとなってきた。
 ところが、近年は保有国が増強を進め、軍縮を求める非保有国との溝を深めている。保有国はNPTを守り、軍縮に努める義務があるにもかかわらずだ。
 業を煮やした非保有国が採択したのが、核兵器禁止条約である。
 全ての国に核使用防止の責任があるとし、核攻撃の危険にさらせば国際法違反となる。法的効力を発する批准50カ国まで残り10で、年内にも発効する可能性がある。
 情けないのは安倍政権だ。保有国と非保有国の「橋渡し役」になると言いながら、その取り組みがまったく見えない。
 米国の「核の傘」の下にあるとして禁止条約にも背を向け続け、非保有国や被爆者から批判を浴びている。
 広島市の松井一実市長はきょうの平和宣言で、条約への署名・批准を強く政府に訴える。
 禁止条約の発効は核廃絶に向けた一歩だ。今こそ惨禍を繰り返さない決意を行動で示す時である。

■悲惨な記憶の継承を

 被爆直後は「75年は草木も生えない」と言われた広島だが、見事に復興した。今では平和を象徴する都市として世界に知られる。
 しかし、被爆者の救済は終わっていない。広島地裁は先月、原爆投下直後に放射性物質を含んだ「黒い雨」の被害者を広く救済する判決を出した。もたらされた被害の深刻さを政府は直視すべきだ。
 被爆者の平均年齢は83歳を超えた。「あの日」の惨禍を直接知る人は確実に少なくなっている。悲惨な記憶を継承していく努力が欠かせない。
 道内も、被爆者は千人近くいたとされるが、約250人になった。北海道被爆者協会は、被爆者が自身の体験を話す語り部活動や展示会を続け、若い世代に伝えていこうと懸命に取り組んでいる。
 新型コロナの影響で、さまざまな活動は停滞を余儀なくされている。しかし、核廃絶を求める動きは待ったなしだ。

 「核なき世界」に向けた強い意志を確実につないでいきたい。

 (社説)原爆忌/惨禍の記憶を途切れさせまい

                            2020年8月6日   読売新聞

 原爆の惨禍について発信を続け、核軍縮に粘り強く取り組む。唯一の被爆国である日本に課せられた責務である。
 広島は6日、長崎は9日に75回目の原爆忌を迎える。被爆直後に「75年は草木も生えぬ」と言われた絶望的な状況から復興した。節目の年の式典が、新型コロナウイルスの感染防止のために規模が縮小されるのは残念だ。
 広島では被爆に耐えたピアノが演奏される。平和への願いを込めた音色を世界に届けてほしい。
 オバマ前米大統領の2016年の広島訪問に続き、ローマ教皇フランシスコが昨年、長崎と広島を訪れた。国内外の多くの人が被爆の実相を知ることが、核廃絶の第一歩となろう。この流れをコロナ禍で止めないようにしたい。
 昨年度の入館者が過去最多だった広島平和記念資料館は、約3か月間臨時休館した。今は、被爆者の講話の動画配信などにも力を入れている。見た人が被爆地を訪れたいと思うよう、資料のデジタル化や多言語化を進めるべきだ。
 大切なのは、惨禍の記憶の風化を防ぐことである。
 被爆者の平均年齢は83歳を超えた。証言や手記、被爆資料の収集や伝承者の育成を急ぎ、後世に受け継いでいかねばならない。
 広島県立福山工業高校の生徒は仮想現実(VR)技術を使い、被爆時の爆心地の様子を体験できる映像を制作した。元住民の証言を集める中で、原爆の恐ろしさをこれまで以上に実感したという。
 人工知能(AI)を活用し、戦時下の日常を撮影した白黒写真のカラー化に取り組む学生もいる。若い世代で戦争の歴史を身近に捉える意識が広がれば、記憶の継承は着実に進むだろう。
 読売新聞などが実施した被爆者アンケートでは、約9割が核廃絶が進まない状況に焦りを感じ、核兵器の使用を懸念する人も4割を超えた。国際政治の厳しい現実を反映しているといえる。
 米国とロシアは核兵器の改良を競い、核使用のハードルを下げようとしている。中国は米露との核軍縮協議への参加を拒み、北朝鮮は核開発を加速させている。むしろ核廃絶に逆行する状況だ。
 非核保有国の一部は核軍縮の停滞に苛立(いらだ)ち、核兵器禁止条約の発効を目指している。核軍縮を建設的に議論できる安全保障環境を整えることが先決ではないか。
 日本は核兵器の非人道性と抑止力としての役割の双方を理解する国として、核保有国と非保有国のパイプ役を務めねばならない。

 (主張)原爆の日/苦難と復興の歴史に光を
                                             2020年8月6日産経新聞 

 広島に原爆が投下されて75年となった。四半世紀を3度、重ねたことになる。
 9日は長崎も原爆の日を迎える。どれほど長い時間がたっても、犠牲者の無念を思い、心から追悼したい。
 新型コロナウイルス禍にある中での、広島の原爆の日である。感染拡大防止のため、平和記念式典も規模を縮小して行われる。
 犠牲者を悼むとともに、原子爆弾の被爆という未曽有の事態からよみがえった広島の歩みを、改めて思いたい。
 広島市の松井一実市長が平和宣言する。事前に発表された骨子ではウイルスの脅威について触れ、「75年間は草木も生えぬ」と言われた広島で人々が連帯して苦難に立ち向かい復興したと述べる。
 どれほどの困苦があったか。作家の原民喜は「夏の花」で悲惨な広島の様子を描いた後、「鎮魂歌」という小説とも散文詩ともつかぬ作品を書いた。
 「僕は堪(た)えよ、堪えてゆくことばかりに堪えよ」「堪えて、堪えて、堪え抜いている友よ。救いはないのか」
 悲痛すぎる言葉である。原は自死した。広島の復興の背後に、これほどにも深刻な苦悩があった。苦難と復興の歴史を忘れぬよう、改めて光をあてたい。
 人体への影響も残った。放射性物質やすすを含んだ「黒い雨」を浴びた原告に広島地裁が7月末、被爆者健康手帳の交付をようやく認めたばかりだ。

 しかしそれでも人々は懸命に歩み、街や暮らしを再建した。苦難を克服してきた。

 その歴史は、新型コロナウイルスや豪雨災害に苦しむ現代の日本に、なにがしかの力を与えてくれるのではないか。耐えている人々を全員で支え乗り切りたい。そのような連帯を大切にしたい。

 ただし平和宣言が政府に対して核兵器禁止条約を締約し、世界が連帯するよう訴えることまで求めるのは、いただけない。
 3年前に国連で採択された同条約に日本は参加していない。北朝鮮などの核兵器の脅威が続く中、米国の核の傘に抑止力を頼る日本としては正しい判断である。核兵器廃絶の理想は尊い。しかし理想だけで平和は守れない。
 支え合ってウイルス禍に耐えることと現実の平和を守ることを、鎮魂の念とともに思いたい。

 (社説)被爆75年の日本と世界/核廃絶の思いを継ぐ時だ
                                            2020年8月6日 毎日新聞

 広島に原子爆弾が投下されてからきょうで75年になる。9日には長崎も原爆の日を迎える。

 炎と爆風にさらされ、放射線を浴びた計21万人が5カ月のうちに犠牲になった。戦後日本が平和立国として歩む原点となった。
 被爆者たちの願いであり、世界共通の理想である「核兵器なき世界」に近づいているだろうか。
 「ヒロシマは75年近くにわたって月面のごとく荒れ果て……降り注ぐ雨が殺人光線を運ぶだろう」
 米軍による史上初の原爆投下後、開発計画に関わった米科学者が米通信社に寄せた談話だ。
 都市は破壊された。それでも、3日後には路面電車が運転を再開し、1カ月後にカンナの花が咲いたという記録が残る。
 いま眼前に広がるのは科学者の予言とは異なる緑豊かな風景だ。荒廃から立ち上がってきた生命力の強さを感じずにはいられない。
 一方で、核兵器がもたらした非人道的な惨禍はいまに続く。
 爆発の上昇気流に伴う雨が放射性物質を含んで降り注いだ。「黒い雨」の健康被害は広範に及び、その苦しみは消えていない。
 惨劇を繰り返さないためには、過去の記憶をいまにとどめ、被爆者の苦悩を直視する必要がある。しかし、それを受け止めるべき世界の現状は暗たんたるものだ。
 核大国は核の近代化を進めている。米露は小型化を競い、すさまじい速度で滑空する運搬兵器の開発に中国を交えてしのぎを削る。
 北朝鮮は米朝合意後も核放棄を履行していない。国境をはさんでにらみ合うインドとパキスタンも核弾頭を増やしているとされる。
 核軍縮は後景に退いた。米露は冷戦時代から続く軍縮条約を廃止した。弾頭数を制限する条約は期限が半年後に迫る。
 延長交渉に失敗すれば信頼の糸は切れ、軍拡が加速するだろう。かつてない危険な状態に陥る。
 冷戦下の米ソ核軍拡は1980年代をピークに軍縮に転じた。レーガン米大統領は当時、「核戦争に勝者はいない」と述べている。
 ひとたび核攻撃が始まれば、世界の主要都市が破壊され、地球上に放射線が飛散し、「核の冬」が訪れ、人類は滅亡する――。
 そんな畏怖(いふ)の念が核軍縮を後押ししたのは事実だろう。広島・長崎以降、「核のボタン」に手をかけた指導者は幸いにもいない。

 時計の針が逆戻りし始めた背景には、とりわけトランプ米大統領の核兵器への特異な認識がある。
 過去に日本や韓国の核保有を認める発言をし、側近には「なぜ核兵器は使えないのか」と尋ねもした。最近では爆発を伴う核実験を検討していると報じられた。
 核兵器を軽々しく考えていないか。爆発力が比較的小さい小型核であっても、使用すれば広島・長崎の惨状が再現されるだろう。
 核戦争が招く悲劇や非人道性に改めて目を向ける必要がある。
 長崎で被爆し3年前に他界した谷口稜曄(すみてる)さんは生前、国連で演説した。赤く焼けただれた背中の写真を掲げ「目をそらさずに見てほしい。ノーモア・ヒバクシャ」と訴えると満場の拍手が送られた。
 被爆者の活動が、国連での核兵器禁止条約採択や核兵器廃絶を訴える国際NGOへのノーベル平和賞授与につながり、国際世論を動かす原動力になった。
 重要なのは、体験を語り継ぐことだ。被爆者の平均年齢は83歳を超えた。いずれ「被爆者のいない時代」を迎える。
 体験記や証言映像などの収集はもちろん重要だ。被爆体験の伝承者の育成も必要だろう。それをオンラインで世界に伝えるのは、新たな伝承手法といえよう。
 原爆の日にあわせたウェブ会議も日米のさまざまな場で開かれる。交流を通じ日米の認識の差を縮める一助になるはずだ。
 開発から使用まで包括的に禁じる核兵器禁止条約はあと10カ国・地域の批准で発効する。核兵器そのものを違法とする条約だ。
 核保有国や米国の「核の傘」に入る日本は反対している。しかし、国際社会の新たな規範から目を背けるなら、「唯一の戦争被爆国」としての責任は果たせまい。
 核兵器を未来に持ち越す負債にしてはならない。4年前、広島を訪れたオバマ前米大統領は「核戦争の夜明け」ではなく「道徳的な目覚め」の場となるよう願った。

 「核なき世界」に近づくためにも、その思いを共有したい。

 (社説原爆忌に考える 忘却にあらがう夏
                          2020年8月6日 東京新聞

遠出を少しためらいながら、広島行きの「のぞみ」に飛び乗りました。
 広島駅から超低床の路面電車で15分。「原爆ドーム前」で下車すると、ドーム正面の定位置に、三登浩成さん(74)の姿がありました。ボランティアガイドグループのリーダーです。
 三登さんの母親は原爆投下から3日後に、疎開先の実家から広島市内の自宅の様子を見に戻り、残留放射線を浴びました。
 その時、妊娠4カ月。母親は「入市被爆者」、三登さんは「胎内被爆者」です。
 長じて高校の英語教師となった三登さんは、50歳の「知命」の年に沼田鈴子さん(2011年、87歳で死去)という語り部の語りを聞いて、「いつか、この人の後を継ごう」と決めました。

◆伝えずにいられない

 定年まで2年残して教職を退くと、この14年間、雨の日を除く毎朝、自転車に手作りの資料を積んで、爆心地に近い広島平和記念公園に通い詰め、海外からの観光客らに、「被爆の実相」を語っています。
 広島、長崎の被爆者の平均年齢は、83歳を超えました。三登さんは、最も“若い”被爆者の一人です。共同通信のアンケートによると、被爆体験の継承活動をしていなかったり、回数を減らしたりしている人は約8割に上っています。75年という歳月の重みが、ここにも大きくのしかかってきています。
 その上にコロナ禍が追い打ちをかけています。感染の広がりが、今後の継承活動を妨げると答えた人は六割を超えました。
 修学旅行や平和学習で広島を訪れる県外からの小中高校生もコロナのために激減です。ただでさえ、ピーク時の6割程度に減っていたというのにです。

◆人は過ちを繰り返す

 三登さんは、海外への伝承に特に力を入れてきました。
 これまでに約180カ国の人々が、英語が堪能な三登さんの語りに耳を傾けました。ところが今年は「米国の高校生だけで延べ2000人のガイドが、キャンセルになってしまいました」と、嘆いています。
 それでも時折、県内の学生や家族連れが訪れます。三登さんは「一期一会の出会い」を求めて、がれきの中に変わり果てた姿をさらし続けるドームの前に、立つことをやめません。
 三登さんは言いました。
 「東京から来た若い女性が『原爆を落としたのは、どの国ですか』と聞くんです。ドームの前でバンザイを三唱していった団体さんもありました。足元には、まだ骨が埋まっているというのにね…」
 忘却の彼方(かなた)で、人は過ちを繰り返す。三登さんがたとえ分厚いマスク越しにでも、伝えることをやめない、というより、やめることができない理由なのでしょう。
 コロナのために今は入場制限がかかった広島平和記念資料館の出口の真ん前に、アオギリの木が立っています。
 爆心地から1.3キロの広島逓信局の中庭にあったアオギリは、熱線に焼かれ、爆風に幹の半分をえぐられました。ところがその傷を自ら包み込むかのように新しい樹皮を張り、1973年に今ある場所に移植されました。実生の若木も隣ですくすく育っています。
 三登さんを語り部へと導いた沼田鈴子さんは、22歳の時に職場だった逓信局で被爆しました。崩れた建物の下敷きになり、左脚を失った上に婚約者の戦死の報に触れ、一時は自殺を考えました。
 そんな時、職場の中庭のアオギリが、傷ついた幹から懸命に細い枝を伸ばして新しい芽を吹く姿を目に留めて、生きる勇気を取り戻すことができました。
 そして「証言は平和の種まき」と言いながら、移植されたアオギリの木の下で、絶望と再生の体験を修学旅行生らに伝え続けた人でした。沼田さんが「アオギリの語り部」と呼ばれた由縁です。

◆再生への希望を語る

 沼田さんはこんなふうに語っていたそうです。
 <皆さん、アオギリはこんなに大火傷(おおやけど)をしても生きているのよ。一生懸命に生きなくてはいけないと、懸命に力を出しているのです><事実をしっかりと見つめる力をもち、ものの見える人、ヒロシマの見える人になってください。しっかりと自己学習して、なにかの形でヒロシマを伝えてください>(広岩近広著「被爆アオギリと生きる」より)と。
 戦後75年。忘却を誘う風にあらがい、私たちも生きて、学んで、伝えていかねばなりません。
ヒロシマを、ナガサキを、核兵器の愚かさを、そして世界中がコロナに沈むこの夏は、特に被爆アオギリが今も無言で伝え続ける再生への希望といったものなどを。