(社説)終戦から75年/命の尊さをかみしめたい 
                             2020年8月15日 北海道新聞

 日本だけで310万人、アジア太平洋地域では2千万人とも言われる犠牲者を出した戦争の終結から、きょうで75年を迎える。
 戦後の日本は戦争の放棄と戦力不保持をうたう平和憲法を掲げ、戦争当事国にはならない道を、4分の3世紀歩んできた。
 だが、その平和がこの先も保たれるのか。安倍晋三首相のこれまでの取り組みを見れば、懸念は膨らむばかりだ。
 米中対立など、国際社会は不安定さを増している。それに合わせるかのように、首相は新たな攻撃力の整備に関心を向ける。

 これでは、ますます「戦争ができる国」に近づこうとしているとしか思えない。

 悲惨な戦争を二度と繰り返さないと誓い、戦後をスタートさせた日本である。力に頼る道を突き進むことは、その原点を顧みていないに等しい。
 新型コロナウイルスの感染拡大で、命の尊さをかつてないほど意識する毎日だ。だからこそ、この日に平和な社会をいかにしてつくるか、じっくり考えたい。

■憲法の理念に反する
 首相は今月初め、自民党が提言した「相手領域内でも弾道ミサイル等を阻止する能力の保有」について、「しっかり新しい方向性を打ち出し、速やかに実行する」と前向きな姿勢を見せた。
 自民党が求めたのは事実上の「敵基地攻撃能力」の保有だ。相手国のミサイルを迎撃するシステム「イージス・アショア」の導入断念を受けて浮上した。
 ただ相手側のミサイル発射の兆候を誤判断すれば、専守防衛を逸脱する先制攻撃となり得る。だから歴代政権は否定してきた。
 保有を認めれば安全保障政策の大転換であり、憲法の理念に反する可能性が大きい。
 これまで安倍政権は「積極的平和主義」を掲げて、集団的自衛権の容認を強引に進め、自衛隊が戦争に巻き込まれかねない安全保障関連法を制定した。
 「敵基地攻撃能力」はそれ以上の危険をはらむ。
 世界を見れば、自国第一主義や強権的な政治の志向が目につく。米国をはじめ中国やロシア、東欧や南米などに広がっている。
 協調を失いかけている世界が眼前にある。対立が深まれば、緊急の国際課題であるコロナ対策だけでなく、地球温暖化防止や核廃絶にも影響する。
 日本周辺でも、中国は公船を沖縄県・尖閣諸島の周辺海域に頻繁に侵入させる。香港に統制を強化する国家安全維持法を施行し、台湾には武力統一をちらつかせる。
 自由や民主主義を抑え込もうとする姿勢があからさまだ。
 核開発を進める北朝鮮を考えれば、日本は情報収集などで韓国と協力することが重要なのに、関係は冷え切ったままになっている。
 だからといって日本が攻撃的な姿勢を強めれば、地域の緊張をいっそう高める。専守防衛に徹し、外交を通じた多国間の協調態勢を構築することこそが求められる。

■戦禍の記憶を記録に
 「きさらぎの/はつかの空の月深し/まだ生きて子は/たたかふらむか」
 国文学者で歌人の折口信夫(おりくちしのぶ)の歌だ。徴兵され、南洋で戦う弟子の姿を思った。東大の加藤陽子教授は「むざむざ必敗の戦いに愛する若者を引き込んだ国家への静かな怒りが伝わる」と解説する。
 戦争に対する、その時を生きた人々の思いは、あまた残る。
 そんな記憶に接すれば、日々の平穏な暮らしは平和があってこそ成り立つと強く実感する。だから次代へ伝えていかねばならない。
 ただ戦争を知る世代は減り、今や「戦後生まれ」は全人口の8割を超える。戦争の体験や教訓を直接聞く機会は失われつつある。
 そんな中で注目したいのが、インターネット技術などを駆使して、後世に残そうとする動きだ。
 文章はもちろん、映像やアニメなどさまざまな形にして記録しておくことが、記憶の風化を防ぐ。
 戦禍を知る術(すべ)を増やし、多くの人に利用してもらう。それが未来の戦争抑止につながる。
 効率を重視した結果。
 戦後75年、戦火は交えなかったが、日本は人の命を大事にする社会を築いてきたのだろうか。
 焦土から立ち上がり、経済大国にはなった。
 だが近年は効率重視の風潮が蔓延(まんえん)し、その影響で公立病院などは整理統合され、保健所もここ30年でほぼ半減したとの指摘がある。
 これは一例にすぎない。
 その結果、格差は拡大し、コロナ禍が広がる中、医療体制を揺るがせている。
 個人を徹底的に踏みにじる戦争を否定し、何よりも命と自由を尊重する。その原点に返り、人に優しい社会を築いていく必要がある。

社説)<戦後75年>終戦の日に考える 非戦の魂 日常の礎に 
                                   2020年8月15日東京新聞

 期せずして、コロナ禍に迎える終戦の日です。疫病と戦争と。二つの「非常」をたどりつつ、これからの「日常」を考えます。
 たとえば外出自粛が解けた5月の日。久々に公園にはじけた親子の笑顔にも、ふと心が和んだように。私たちがこの非常時に気づかされたのは、何げない日常の大切さ、ではなかったでしょうか。
 それはまた、戦後の日本人が過酷な戦争を体験してこそ実感した「平和の尊さ」と似ているようでもあります。けれども終戦当時の人々に、その尊さをしみじみ実感するような暇(いとま)は、ほとんどなかったかもしれません。
 戦後間もなく、市民の穏やかな日常生活を描く裏側に、戦争の幻影をにじませた独特の映画がありました。大方はお分かりでしょうか。邦画の巨匠、小津安二郎監督の手になる何本かです。
 40歳すぎまで苦難の戦歴を経た監督は終戦翌年に帰国後、戦争を意識しての映画づくりに没頭します。1951年公開の「麦秋」もそんな一本でした。
 3世代が同居する家族の日常ドラマを背景に、長女が嫁ぎ、長男一家を残して老夫婦も地方に隠居する。互いの幸せを思い、離れていく家族の哀愁が描かれます。しかし、この映画には仕掛けがありました。
 いまだ戦地から戻らぬ次男の影が家族の心裏に忍び込み、姿なく日常に居座るのです。息子の戦死を諦め切れぬ母親はラジオの尋ね人番組に毎日耳を傾ける。「(次男は)もう帰っちゃ来ない」と諦めを促す父親に、母親が納得いかないふうで宙空をにらむ場面が、力を放っていました。
 麦秋とは麦を収穫する初夏のころ。映画は老夫婦が見渡す一面麦畑のシーンで終わります。

◆死んでも諦め切れない
 その麦秋に重ね、人生のいわば収穫期に差しかかる夫婦が、横並びで静かに言葉をたぐります。
 「みんな離ればなれになったけど、しかしまあ私たちはいい方だよ」「欲を言えば切りがないが」「でも本当に幸せでした」
 次男のことにはあえて触れず。自然が導く運命への達観と諦観が二人の胸中を行き来します。
 だけど、家族の命を奪ったのは自然ではなく人為の戦争です。死んでも諦め切れるはずはない。日常に引きずる戦争へのそうした遺恨こそが、当時の人々の本音ではなかったでしょうか。小津監督もその同世代にいたはずです。
 <小津自らの映画製作のこだわりとは、この国が抱えた「戦争はいかにして我々の日常を殺すか」というテーマだった>
 昭和史研究で知られる保阪正康氏が自著「太平洋戦争を考えるヒント」(PHP研究所)で説く小津映画論の一節です。その視点から戦争と社会を見つめた「小津という映画人は、実は誰よりも強く『非戦』を訴えていた」とも。
 人々の日常を壊す戦争への強い忌避感。小津映画に貫かれたのは終戦世代の遺恨を集めた、まさに「非戦の魂」でした。
 時代は遡(さかのぼ)って1918年。15歳の小津少年は10代を過ごした三重県松阪市で、別の「非常」に遭遇します。日本で感染死者39万人と猛威を振るったスペイン風邪が身辺に迫っていました。今も市の顕彰施設に残る少年の日記が、当時の日常を伝えます。
 11月、感染で学校を休んだ友を気遣い、休校で試験が延期となれば“しめしめ”と素直に喜んだり−。
 戦争への憎悪に比べれば、自然がなせる疫病には少年の、どこか鷹揚(おうよう)な構えものぞきます。いうなれば非常と共存する日常の風景でした。
 そして一世紀後の今日。コロナ禍にもがく私たちの社会でも、非常と共存し、互いに支え合う「新たな日常」が語られます。
 今が終息しても、新たな疫病は形を変えてまた現れるでしょう。非常時に支え合う日常のありようも、その形に合わせ、続いていくのかもしれません。
 何げない日常が長く続くには、戦争に壊されぬ平和の礎がまずは必要です。平和でこそ公園に笑顔もはじけ、心も和むのでしょう。
 しかし平和もまた人為です。根底に、戦争を拒否する人間の強固な意志がなくてはならない。

◆世代の責任果たさねば
日本人の平和主義は、戦争に日常を壊された終戦世代からの「非戦の魂」を、代々の意志としてつないできました。戦後75年。今あらためて実感する平和な日常の尊さです。
 大切なこの平和を受け継ぐ私たちも無論、世代の責任を果たさねばなりません。それは、コロナ禍との日常を体感した現世代なればこそ果たせる責任かもしれない。どんな非常時にも日常の礎に「非戦の魂」が座り続けるよう、しっかりと後世へつなぐ責任です。

 
(社説)戦後75年の現在地 不戦と民主の誓い、新たに
                                    2020年8月15日 朝日新聞

 日本が戦争に敗れて、きょうで75年である。

 筆舌に尽くせぬ惨状を経て、この国は戦争の愚かさと平和の貴さを学んだ。
 二度と過ちを繰り返さない。その誓いとともにあったのは、「民主主義の世の中」に変わるという国民の意識だった。

 国に民が仕える国家主義ではなく、民が主権者として進路を決める民主社会へ。

その変革は、どこまで達せられただろうか。人々がそれぞれ等しく個人として尊重される世の中になっただろうか。
 世界は折しもコロナ禍に直面し、人間の安全が問われている。そのなかで戦後日本の現在地はどこにあるのか考えたい。

 ■人間の自立を説く
 広島港沖の瀬戸内海に浮かぶ人口約750人の似島(にのしま)。この小島の歴史は、近代日本がたどった浮沈を映している。
 19世紀末の日清戦争で、日本は近代国家として初めて感染症の水際対策を迫られた。帰還兵の検疫・隔離のための施設がつくられたのが、似島だった。
 大陸進出が広がるにつれ施設は拡充されたが、やがて対中、対米戦争へと突入。そのころには戦線が延びきり、検疫を受ける部隊はいなくなった。
 敗戦の夏、8月6日。原爆に焼かれた1万人超が、空いていた検疫所に運ばれた。
 「殺到してくる死に瀕(ひん)した真っ黒な人々に、せめて仰向けに寝る場をあたえることで精一杯であった」。軍医の錫村(すずむら)満が、島の惨劇を「似島原爆日誌」にそう書き残している。
 似島を日本の検疫拠点にしたのは、明治・大正期の政治家、後藤新平である。医学で身を立て、開明的な発想で医療衛生の近代化に尽力した。
 後藤が残した言葉に、「自治三訣(さんけつ)」がある。「人のお世話にならぬよう 人のお世話をするよう そして報いを求めぬよう」。国民の健康と人間の自立を尊んだ後藤は、自身の亡き後に日本がたどった戦争の果ての破局をどう見ただろうか。

 ■政治を見極めてこそ
「我々は戦争状態にある」とマクロン仏大統領が語れば、中国の習近平(シーチンピン)国家主席は「人民戦争だ」と民衆を鼓舞する。
 ことしのコロナ禍を受け、一部の政治指導者は事態を戦争に例える発言をした。社会を不安や不満が覆うとき、政治家が勇ましい言葉で求心力を高めようとすることは珍しくない。
 だがしかし、そんな時こそ、国民は神経を研ぎ澄まし、政治を冷静に見極める必要があることを、歴史は教えている。
 ドイツ出身の哲学者ハンナ・アーレントは、「凡庸な悪」というべき平凡な人間の思考停止がナチスの大罪を支えた、と論じた。それは当時の日本にも通じるものだろう。
 「これは大へんなことになったと思いながら、しかし一方ではなにがしかの解放感があった」。日米開戦での心境を、文芸春秋にいた池島信平は著書「雑誌記者」に書いている。
 中国戦線に加え、先が見えぬ不安。戦争の無謀さを感じつつも、「頭を押さえられている鬱屈(うっくつ)した気持が一時に破れた」。
 治安維持法などにより、言論が厳しく取り締まられた時代である。軍部が情報を操作し、朝日新聞を含むメディアは真実を伝えず、国民は多くを知らないまま一色に染まった。
 個人を尊重する戦後民主主義の理念は、あの戦争から学んだ社会の安全装置なのである。
 一人ひとりの意識が問われるのは、コロナ禍も同じだろう。感染拡大を防ぐうえで、ある程度の社会の統一行動が求められるのはやむをえないにしても、最終的に大切なのは個々の判断に基づく行動だ。
 日本の検疫制度を築いた後藤のいう人間の自立と他者への思いやりは、いまも示唆的な意味を持つ。政府の最大の務めは、情緒的な言葉の発信ではなく、国民が自ら理解し行動するための情報開示と説明であろう。

 ■憲法に背向ける政権
 いま世界では、多様さを認める自由社会と、画一性を強いる強権社会がある。米中「新冷戦」と呼ばれる覇権争いが起きている現実は嘆かわしい。
 しかし、先行きが不透明な国際情勢にあっても、日本が自由と民主主義の基盤に立つ原則を曲げよ、という声はない。
 日本国憲法は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにする」とし、「主権が国民に存する」と宣言した。不戦の誓いが民主主義と連結した戦後思想は、国民に浸透しているといえるだろう。
 むしろ、背を向けているのは政府のほうではないか。安倍政権による国会軽視の数々。市民に必要な情報公開どころか、公文書の改ざんや隠蔽(いんぺい)にまで及んだ権力の乱用は、国民主権への冒涜(ぼうとく)というほかない。
 戦争の記憶を継承し、新時代の難題に取り組みながら、問い続けていかねばならない。75年前、再出発した日本がめざした民主国家づくりは、どこまで実践されているか、と。

(社説)戦後75年/国際協調維持へ役割果たそう
                                  
2020年8月15日 読売新聞
◆惨禍招かぬよう記憶を伝えたい◆
 75回目の終戦の日を迎えた。政府主催の全国戦没者追悼式が東京の日本武道館で行われる。
 新型コロナウイルスの感染防止のため、初めての縮小開催となる。
 参列者は500人余りで、例年の10分の1を下回る。会場が密集状態にならぬ配慮に加え、遺族の参列を見送る府県もある。高齢者が多い以上、やむを得まい。
 昭和の戦争で命を落とした310万人に対し、心より冥福(めいふく)を祈る意義はいささかも変わらない。その尊い犠牲を礎に、今日の日本がある。戦後75年の平和と繁栄を守り抜かねばならない。

◆深刻化する国家間対立

 戦後50年の1995年には、米ソ冷戦は既に終結し、イデオロギー対立の時代は去っていた。平和への期待が高まっていたが、それから四半世紀後の現在、国際秩序はむしろ動揺を深めている。
 対テロ戦争で疲弊した米国は、「自国第一」主義を強めている。中国は南シナ海や香港などの問題で国際ルールを蔑(ないがし)ろにし、米中対立が激化している。ロシアもクリミア併合などで、一方的な現状変更を重ねてきた。
 大切なのは、複雑化する国家間の対立構造を冷静に把握することだ。政治学者の北岡伸一氏らの共同研究に基づく近著「新しい地政学」に重要な指摘がある。
 冷戦後は、対抗関係にある国々の間にも、緊密な経済交流が存在している。グローバル化した経済の下では、政治力、軍事力とともに、経済力の戦略的意義が問われるようになった、という。
 特に中国が巨額の経済援助と圧力を絡め、影響力拡大を図ってきた手法を見れば、頷(うなず)ける。
 日本としては、軍事力や経済力の重なり合った対立を緩和し、国際ルールに即した協調路線へ引き戻す役割を果たしたい。
 その発言権を確保する上で不可欠なのは、経済力を低下させず、国内の安定を保つことである。
 目下の難題は新型コロナウイルスの流行と世界経済の失速だ。政府は感染抑止と経済再生の両立に全力を挙げねばならない。
 社会不安が高まれば、政治不信が加速する。ポピュリズム(大衆迎合主義)が台頭し、無謀な戦争へ突き進んだ戦前の歴史を考えれば、健全な内政こそは国際協調に資する外交の前提と言えよう。

◆基盤は現実的な防衛論
 今年は朝鮮戦争開戦、そして自衛隊の前身である警察予備隊の発足から70年の節目にあたる。

 ともに1950年夏、戦後5年のことだ。当時、読売新聞社長だった評論家の馬場恒吾は「如何なる国も或程度まで自から衛る力を必要とする」と説いている。
 また「国の安全を守ることは米国軍に委任して、われわれは自分の生活をよくさえすればよいとの心理にひたり過ぎた」と記している。戦後の平和は、こうした現実的な防衛論に支えられてきた。
 54年の自衛隊創設に続き、60年には、現行の日米安全保障条約が締結された。日米同盟は、アジア太平洋地域の安定に欠かせない基盤となっている。
 最も切迫した脅威は核・ミサイル開発を進め、挑発を繰り返す北朝鮮である。自衛隊の役割を強化し、日米同盟を強固なものにする努力が肝要だ。陸・海・空に加え、宇宙やサイバー空間も想定し、抑止力を高めたい。
 国際協調に対する挑戦がどれほど悲惨な結果を招くか。戦争の記憶を継承し、世界へ訴え続けることは日本人の責務である。


◆領土の歴史も正確に
 京都産業大名誉教授の所功さんは中学生になって初めて母親から父の戦死公報を見せられた。最後の手紙には「どうか立派に功を育ててくれ」とあったという。

 72年、父の享年と同じ30歳の時にソロモン諸島で遺品や遺骨を発見した。戦没者の無念さを受け止めることは、戦後日本の針路を堅持する決意を新たにさせよう。
 遺憾なのは、日本の外交努力にもかかわらず、一部の近隣国との間で、昭和の戦争に遡る懸案が解決に至っていないことだ。
 ロシアは憲法改正で「領土の割譲禁止」を明記した。旧ソ連が北方4島を不法占拠した事実を正当化するもので、北方領土交渉への悪影響が懸念される。
 日韓関係は元徴用工(旧朝鮮半島出身労働者)問題で、一段と悪化している。65年の日韓請求権・経済協力協定に反する韓国最高裁の判決に、文在寅政権が善後策を講じていないためだ。

 戦後75年を機に、領土や戦後処理の歴史を、若い世代に正しく伝えていくことが重要である。 
(社説)戦後75年を迎えて/歴史を置き去りにしない
                                  2020年8月15日 毎日新聞

 75年前のきょう、日本は戦争に敗れた。無謀な戦争による犠牲者は日本だけで310万人以上にのぼり、アジアでは2000万人を超えるとされる。
 日本は惨禍を重く受け止め、平和国家としての歩みを続けてきた。その方向性はどれほどの時を経ようとも変えるものではない。
 ただ、時間の風雪は過酷だ。戦後生まれの世代は日本の総人口の85%になり、戦争の不条理を体験者から聞くことができる時代は終わりつつある。日本が針路を誤った記憶は「昔話」と化す。
 だからこそ、戦争の実相を語り継ぎ、国民の中でしっかりと共有していく必要がある。
 開戦時、日本が思い描いていた展開はこうだろう。
 --緒戦で米艦隊に大打撃を与え、東南アジアの要衝を押さえ戦いに必要な資源を確保する。米軍が反攻を始める前に、米国民は戦争に嫌気が差す。日本の同盟国であるドイツがソ連に勝利し、米国と有利な条件で講和を結べる。

 希望の羅列に近い。

 別の分析もあった。
 対米開戦前の1941年8月、当時の軍部、官僚、民間の中堅、若手の精鋭を集めた「総力戦研究所」が戦争した場合のシミュレーションを行い、必ず負けるという分析を内閣に報告した。
 これに対し、東条英機陸相は「戦というものは計画通りにいかない」と退けたという(猪瀬直樹著「昭和16年夏の敗戦」)。
 東条はまもなく首相になり、対米開戦に踏み切る。
 ただ、軍部の独走だけにとらわれず、開戦の背景にあるものにも目をこらす必要がある。見過ごせないものの一つがポピュリズム(大衆迎合主義)だ。

 昭和天皇は開戦前の国内状況についてこんな発言を残している。
 「若(も)しあの時、私が主戦論を抑へたらば、国内の与論は必ず沸騰し、クーデタが起つたであらう」(「昭和天皇独白録」)
 極東国際軍事裁判の開廷前の聞き取りであり、自己弁護的との指摘もある。だが、発言は国民の熱狂の強さを伝えている。日米開戦の報に接した高揚感を日記や詩に記した文化人も少なくない。

 開戦に意気上がる世論について、東京大の加藤陽子教授(日本近現代史)は「満州事変以来10年、国民は反英米の言説ばかり聞かされてきた。交渉による妥協などには耳を貸せなかった」と語る。
 全体主義が進み、治安維持法をはじめとした弾圧立法、抑圧機構が反戦、反権力的な動きを抑え込んだ。国民は目と耳を塞がれたような状況下に置かれ、「挙国一致」のかけ声の中で開戦に付き従う空気が醸成された。
 ポピュリスト政治家が高揚する世論に乗じて影響を広げた。メディアも偏狭なナショナリズムをあおる報道を展開した。

 戦後の国際秩序は今、大きく揺らいでいる。米中の対立は世界史で繰り返されてきた新旧勢力の衝突に向かうかのようにも見える。
 中国や北朝鮮に示威的な行動を見せつけられると、勇ましい声が勢いを増しかねない。
 その時に支えとなるのは、戦争の真の姿に対する理解だろう。イデオロギーを先行させたり国家のメンツにこだわったりせず、「負の歴史」との尽きることのない対話から得る理性が重要となる。
 開戦時、政府関係者の念頭を支配したのは日露戦争の成功体験だ。自らの弱点を正視せず、都合のいい歴史を思い出す精神構造が平和論を弱腰と排除した。
 表現や、思想、信条の自由を保障した憲法を持ち、主権者である国民が政治の行方を決定できることがあの時代とは異なる。その権利を使って、国の行く末を冷静に見つめ、おかしいと思えば今はためらわずに発言できる。
 新型コロナウイルスの感染が拡大し、日本国内の死者は1000人を超えた。何の罪もない家族や知人がある日突然、命を奪われる体験をした人もいる。
 「非常時」「有事」などの比喩が使われ、戦時的な思考が顕在化した。その中で、国家は何をすべきかを問い、その対策に厳しい目を注ぐ国民が全体でこれほどまでに増えたのは、戦後75年にして初めてではないだろうか。
 気づきを得て、国のありように関心を持つ市民が社会を強くする。平和国家の道程を未来に確かに引き継ぐ夏にしたい。

(社説)敗戦から75年 日米の犠牲にならない
                                            2020年8月15日 琉球新報

 アジア・太平洋戦争の敗戦から75年たった。戦争体験者が少なくなる中で、不戦を誓い、平和を希求する決意を新たにしたい。
 戦争によって沖縄を占領した米軍は、いまだに駐留している。外国の軍隊を沖縄に押し付けて、自らの安全を確保してきた日本の戦後75年の姿はいびつである。
 27年間の米国統治が終わり日本に復帰した際、沖縄は「基地のない平和な島」を切望した。これ以上、日米両国の犠牲になることを拒否する。
 1945年8月15日、昭和天皇が玉音放送で無条件降伏を求めた「ポツダム宣言」受諾の証書を読み上げたことで戦争が終結したとされる。
 実は天皇の判断によって8月10日、国体護持という条件付きで「ポツダム宣言」受諾を決定し、米英ソ中に伝えられていた。しかし、国民に発表するまで5日を要し犠牲は増え続けた。
 日本が10日、スイスに打電したポツダム宣言受諾の電文を沖縄で米通信兵が傍受していた。日本降伏の知らせにカービン銃が空に向け発射され、曳光(えいこう)弾が一斉に打ち上がった。米軍の野戦病院で知った池宮城秀意(後の琉球新報社長)は「万歳」と叫んだ。生きて家族に会えるという喜びで雲にも乗った気分だったという(「戦場に生きた人たち」)。
 しかし、池宮城の高揚感と現実は違っていた。6月に沖縄で組織的戦闘が終結した後も戦闘が続いていた。ポツダム宣言受諾から玉音放送までの5日間、米軍は日本兵を100人以上殺害している。15日以降、久米島で住民が日本軍にスパイ視され虐殺されている。日本は9月2日、降伏文書に調印したが、沖縄の降伏調印式は9月7日だった。
 さらに米軍は、沖縄戦の最中、基地建設に着手。住民を収容所に追いやり建設された米軍普天間飛行場は、8月4日時点で滑走路1本は70%完成していた。
 米国統治時代、沖縄に約1300発の核兵器と大量の化学兵器が貯蔵された。住民は戦争に巻き込まれる危険と隣り合わせの生活を強いられた。
 そして戦後75年の今、安倍政権は敵基地攻撃能力を持った兵器の保有に踏み出そうとしている。専守防衛など憲法の理念から大きく逸脱する。
 専守防衛は、アジア・太平洋戦争で周辺諸国に多くの犠牲を強いた日本が、過ちを繰り返さないという意思表示である。その基本政策をかなぐり捨てることは認められない。
 米国には、核兵器が搭載可能な新型中距離ミサイルを、沖縄をはじめ日本列島に配備する計画がある。

 日本が敵基地攻撃能力を持ち、米国の新型中距離ミサイルが配備されると、沖縄がロシア、中国、北朝鮮の標的にされ核兵器と通常兵器で攻撃される可能性が高まる。

 武力行使によって国民を二度と戦争の惨禍に巻き込まない。75年前の誓いを忘れてはならない。 
(社説)終戦から75年/戦後世代こそが担う平和
                             2020年8月15日  西日本新聞

 世界が新型コロナウイルスとの闘いで混乱、迷走する姿は、こんな言葉を想起させます。
 「歴史は繰り返す」。過去の教訓は歳月の流れとともに忘れ去られ、人類は幾度となく同じような運命にさらされる-。古代ギリシャの時代から歴史家たちが発してきた警句です。
 終戦からきょうで75年。戦禍の記憶はいよいよ細りつつあります。歴史の戒めをいま一度、胸に刻み、不戦の決意を新たにしなければなりません。

■記憶を紡いで次代へ
 「戦争体験の風化に拍車がかかっている」。今年の列島は悲痛な声に包まれています。九州をはじめ全国の戦争資料館などは、コロナ禍で長期の休館を余儀なくされました。再開後も語り部活動の休止、見学者数の制限など厳しい対応を迫られています。戦没者追悼行事の相次ぐ縮小も例年にない光景です。

 しかし、記憶の糸を丹念に紡ぐ地道な営みも続いています。 「高倉健の想いがつないだ人々の証言『私の八月十五日』」(今人舎刊)。先月出版されたこの本も、その一つです。福岡県出身の俳優で6年前に他界した高倉さんと縁があった戦争体験者ら24人の証言集です。高倉さんの養女小田貴月(たか)さん(56)=東京在住=が、昨秋から九州を含め各地を訪ねて話を聞き取るなどして編み上げました。
 ロケ先で知り合った飲食店関係者など、市井の人々が中心です。肉親の戦死、勤労奉仕、疎開、特攻など戦時の過酷な境遇や、その時代を必死で生き抜いた記憶が平易な文章でつづられています。83歳で亡くなった高倉さんも晩年、勤労動員中に機銃掃射を受けた記憶などを語り、体験を後世に伝える責任を感じていた、といいます。
 出版はその遺志を受け継ごうと小田さんが企画し、漢字に振り仮名を入れるなど児童でも読める内容になっています。小田さんは「戦時とコロナ禍に共時性のようなものも感じた。多くの子どもたちが歴史を学び、今後の生き方を考えるきっかけになれば」と話します。

■憲法の大いなる力を
 新刊の一方で復刊や重版が続く書物もあります。「アフガニスタンの診療所から」(筑摩書房、1993年刊)をはじめとした福岡県出身の医師、故中村哲さんの著作です。昨年末、73歳で中村さんが命を絶たれたアフガンでの悲劇はいまだに信じ難く、悔しくてなりません。

 戦乱と干ばつが続く大地で、用水路建設の大事業などを進め多くの命を救った姿は詳述するまでもないでしょう。「平和憲法を持つ日本だからこそ現地で受け入れられた」という中村さんの足跡は、その死によって無に帰したわけではありません。 むしろ、尊い犠牲の上に生まれた現行憲法の価値やそれに基づく人道支援がいかに大きな力を持つか。改めて多くの人が思いをはせました。著作が読み継がれる理由もそこにあります。
 新冷戦-。いま国際社会は緊張の度を増しています。米国と中国の対立の先鋭化はかつての東西関係になぞらえられ、冒頭の警句にもつながります。感染症は「人類共通の敵」であるのに、世界は協調どころか敵対や分断の様相を帯びています。
 日本と近隣国との関係も冷え込み、朝鮮半島にはきな臭さが漂います。そうした中、日本ではミサイル防衛策として「敵基地攻撃能力」が議論されています。いかにも拙速で専守防衛を逸脱する懸念を禁じ得ません。

 戦後生まれは既に1億人を超え、総人口の8割を大きく上回りました。忘却にあらがい、平和を守り抜く覚悟を持つべきは、戦後世代にほかなりません。
 戦後75年の節目に当たり、私たちはその使命を深く見据え、国内外の不穏な情勢にも目を凝らす必要があります。この国が歴史のわなにはまり、過ちを繰り返すことがないように。