本土復帰から48年 「沖縄の心」届く日は
                         
東京新聞 2020年5月14日

 沖縄県が日本に復帰してから48年がたちますが、県内には在日米軍専用施設の約70%が残り、新しい基地すら造られようとしています。「基地なき島」を切望する県民の心は、いつになったら日本政府に届くのでしょうか。

 昨年12月25日、外務省が公開した外交文書の中に、1969年11月20日、当時、米軍施政下にあった沖縄から愛知揆一外相に宛てた公電がありました。発信者は日本政府沖縄事務所長の岸昌(きしさかえ)氏。旧自治省から初代所長として派遣され、復帰準備に当たっていました。

対話と理解求める公電

 公電発信は、佐藤栄作首相とニクソン米大統領がワシントンでの日米首脳会談で、72年に沖縄を「核抜き・本土並み」で返還することに合意し、共同声明を発表した直後。現地沖縄の反応を政府に報告するためのものでした。
 岸氏は公電で「沖縄100万の県民は予想通り『共同声明』を平静裡(り)に受け止めた」としつつ、県民の心には「24年間にわたる米国の統治から、いよいよ解放される解放感」や「復帰後も現実に米軍基地が残ることから来る不安」などが「雑然と混在し、平静さの底に複雑な陰影を作り出している」と指摘しています。
 その上で、「政府としてはこのような『沖縄の心』にきめ細かな配慮」をしつつ、(1)本土と沖縄との間の「対話」を広げ理解を深めること(2)祖国復帰を「第二の琉球処分」視されてはならないこと(3)沖縄を政治的、財政的な「重荷」と受け取らず、沖縄の復帰を全国的視野から積極的に活用すること-の3本柱を中心に具体的政策の決定を急ぐよう進言しています。
 当時、政府内には沖縄への特別の措置は不要との意見がありましたが、岸氏は「束(つか)の間の特例措置を惜しんで、復帰を琉球処分の再現と思わせるのは、当を得たこととは思えない」と退けます。

変わらぬ基地への不安

 岸氏は自著に「大学を出ていらい特権に擁護されて、立身出世のエリート・コースを走ってきている日本の官僚に真の沖縄の心がわかるだろうか。困窮と挫折と不安のなかから祖国を呼びつづけてきた沖縄の心が――」と記します。
 岸氏が、当初拒んでいた沖縄赴任を決心したのは、太平洋戦争末期、戦艦大和の沖縄特攻に参加できなかった負い目、そして心の支えとなったのが戦局が悪化した沖縄県に最後の官選知事として赴任し、戦火に倒れた内務官僚の大先輩、島田叡(あきら)氏の存在でした。
 岸氏は沖縄事務所長の後、旧自治省の官房長や大阪府副知事を経て、大阪府知事を3期12年務めます。この間、府の財政赤字解消や関西国際空港を手掛ける一方、「憲法否定の発言をしたり、太平洋戦争を『聖戦』と呼んだり」(岡田一郎「革新自治体」)して批判もされます。
 それでも岸氏の言動から読み取れるのは、戦争で県民に多大な犠牲を強いたことへの贖罪(しょくざい)意識と、県民の苦悩を理解しようとする公僕としての良心です。琉球処分が沖縄県民の傷となって残っていることにも思いを寄せています。
 今、日本政府の官僚や政治家に岸氏が沖縄に対して抱いたほどの心情があるのでしょうか。
 確かに、48年前のあす施政権が返還された沖縄県は日本に復帰し、苛烈な米軍統治は終わりました。しかし、沖縄には今なお在日米軍専用施設の約70%が残り、米軍による訓練や運用中の事故や騒音、米兵らの事故や事件も後を絶ちません。県民は変わらず重い基地負担を強いられています。
 にもかかわらず、日本政府は新しい米軍基地を名護市辺野古沿岸部に建設中です。貴重なジュゴンやサンゴ礁が生息しようとも、海底地盤が軟弱でどんなに工期や税金がかかろうとも、お構いなしで土砂を投じます。
 米軍普天間飛行場の危険性を除くためだとしても、同じ県内に基地を移しては負担軽減にならないにもかかわらず、です。
 県民が選挙で新基地建設反対の民意を繰り返し示しても耳を傾けようとしません。県知事が異議を申し立てても、政府は法の趣旨をねじ曲げてでも退けます。

第二の琉球処分を懸念

 県民の抵抗を排し、新基地建設を強行する姿勢は、岸氏が懸念したように「第二の琉球処分」を想起させます。故翁長雄志知事は、軍政下の沖縄を強権的に統治し、「沖縄の自治は神話」と言い放った米陸軍軍人、キャラウェイ高等弁務官に例えたこともあります。
 「沖縄の心」はいつになったら本土に届き、理解されるのでしょうか。政府の枢要を占める政治家や官僚にはぜひ、かつて岸氏のような官僚がいたことを思い起こしてほしい。本土に住む私たちも同様に、沖縄の現実から目を背けてはならないのは当然です。

  沖縄復帰48年 希求した平和なお遠く
                           朝日新聞 2020年5月15日

 復帰48年となるきょう15日を、沖縄はこれまでとは違った様子で迎える。毎年この日前後におこなわれてきた「5・15平和行進」が、コロナ禍によって初めて中止になったのだ。
 県外からの参加者も含め、数千人が3日間かけて米軍基地や沖縄戦跡を歩く企画は、1978年に始まった。米軍統治時代に日本復帰を願って先人が取り組んだ運動が原型で、沖縄の現実を自分たちの目で確認し、復帰の内実を問い直そうという思いが込められている。
 
では、その「沖縄の現実」とはいかなるものか。

 今年に入っても在沖米軍による事件事故が絶えない。原因究明や再発防止を求める声は、日米地位協定の壁にはねつけられる。辺野古では、計画の実現可能性に大きな疑問符がつきながらも、民意を無視した日本政府の手で基地の建設工事が続く。先人がめざした「基地のない平和な島」は、むしろ遠ざかっているようにすら見える。
 県民が納得できない出来事は他にもあった。7年前、普天間飛行場の県内移設断念などを求め、全41市町村の首長が保革の立場を超えて署名し、発足間もない第2次安倍政権に提出した「建白書」をめぐる発言だ。
防衛省は今年2月、これを国立公文書館に移管して、永久保存すると明らかにした。文書の歴史的意義を政府も認めたことを意味する。だが県内移設の是非に関しては、河野太郎防衛相は「建白書とは考え方が違う」「政策に変化はない」と言うだけで、沖縄の声に耳を傾ける姿勢はついに見せなかった。
 昨年2月の県民投票を実現させる運動の中核を担い、辺野古ノーの民意を改めて確認した大学院生の元山仁士郎(じんしろう)さん(28)は「この国に民主主義はあるのか」と問いかける。

建白書は、その後の沖縄の歩みとも密接にかかわる。
 首相に提出する前日、東京・銀座をデモ行進して基地負担の軽減を訴えた首長らに、一部の者が「売国奴」「日本から出て行け」と罵声を浴びせたのだ。デモの列にいた当時の翁長雄志(おながたけし)那覇市長は本土への不信を強め、自民党県連の重鎮という立場から、沖縄の声を主張して引かぬ「闘う知事」に転身した。
 平和主義、生存権、法の下の平等、地方自治――。復帰運動は単に日本国民になることを望むものではなく、日本国憲法のこうした理念を支持し、その憲法の下でくらすことを希求する人びとのうねりだった。
 沖縄はいまどんな状況にあるのか。過重な負担に耐え続ける県民の声をどう受けとめるか。本土に住む者が考えなければならない5月15日だ。

 [コロナ禍の復帰48年]新基地の財源 困窮者に
                                            沖縄タイムス 2020年5月15日

 沖縄の施政権返還からきょう15日で48年を迎えた。
 新型コロナウイルスの影響で、1978年に始まった「5・15平和行進」と県民大会が初めて中止となった。
 米軍統治下の沖縄は「空にB52、海に原潜、陸に毒ガス-天が下に隠れ家もなし」といわれたが、基地の集中が暮らしを脅かしている現状は変わっていない。
 米軍普天間飛行場に近接する普天間第二小の校庭にはシェルターがある。オスプレイなど軍用機が飛来すると子どもたちが逃げ込むためだ。命が危険にさらされながら学習する小学校がいったいどこにあるだろうか。教育を受ける権利が侵害されているのである。復帰48年の現実だ。
 基地からの環境汚染は住民の健康に関わる。今年4月、普天間飛行場から発がん性が指摘される有機フッ素化合物PFOS(ピーホス)を含む泡消火剤が大量に漏れ出した。泡消火剤は側溝を通って近くのこども園に飛散、川を通って住宅街に舞い散った。
 看過できないのは事故の原因をつくった米軍の兵士らが回収作業をせずに立ち去ったことだ。住民への被害をどう考えているのだろうか。宜野湾市消防本部の職員が危険を冒しながら回収に当たった。
 県の立ち入りが認められたのは11日後。その後の立ち入りで汚染土壌の採取を米軍が拒否し、はぎ取った土壌を米軍が県に提供した。透明性を欠き、調査とは呼べない。昨年12月の漏出事故で米軍は「基地外へ流れていない」とうその説明をしていた。
 傍若無人な米軍の振る舞いを許してきた国の責任は重いと言わざるを得ない。

 地元の理解が得られない安保政策は本来あり得ない。
 政府は、地上配備型迎撃システム「イージス・アショア」を陸上自衛隊新屋演習場(秋田市)へ配備する計画を断念した。ずさんな調査や住民説明会での職員の居眠りなど住民の強い反発を招いたからだ。昨年夏の参院選秋田選挙区では反対派の野党系候補が当選。秋田県知事も住宅地や学校が近いとして配備断念を防衛省に要求していた。
 沖縄ではどうか。県知事選や国政選挙で繰り返し、辺野古新基地建設に反対する候補が勝利を収め、昨年2月には県民投票で投票総数の約7割が反対票を投じた。民意は明らかである。だが当時の防衛相は「沖縄には沖縄の民主主義があり、しかし国には国の民主主義がある」と言ってはばからなかった。
 新基地で普天間の「一日も早い危険性除去」という政府の論理は破綻している。大浦湾に軟弱地盤が広がり、工期と工費が大幅に膨らむことを政府が認めているからだ。
 新型コロナの影響で沖縄の経済はかつてない落ち込みだ。倒産の危機が迫る業者も。雇用情勢の悪化が懸念され、非正規社員やシングルマザーなどひとり親世帯は困窮を極める。国や県、市町村も対策を打っているが、不十分だ。
 新基地は「不要不急」の極みである。計画を断念し、その財源を窮地に陥っている中小零細企業や困窮世帯に振り向けるべきである。

  日本復帰48年 基地なき沖縄へ歩み続く
                                           琉球新報 2020年5月15日

 48年前のきょう、沖縄は日本に復帰した。
 米統治下の27年の間に戦後復興から取り残された経済の遅れを取り戻そうと、これまで5次にわたる沖縄振興計画の下で社会資本の整備や産業振興策が実施され、生活水準は向上してきた。
 当初は本土との格差是正が目標だったが、近年は国内屈指の成長力で、アジアへの懸け橋として日本経済のけん引役を目指すまでになった。

 一方で、県民生活を圧迫する米軍基地の存在は、復帰から48年を経ても何も変わっていない。

 国土面積の0・6%の沖縄に、全国の米軍専用施設面積の70%が集中する。米軍機の墜落や部品落下がたびたび起きている。普天間飛行場から大量の泡消火剤が流出した事故のように、基地から派生する環境汚染も深刻だ。
 過重な基地負担は減らないばかりか、中国をにらんだ前線基地として沖縄を要塞化する危険な動きが進む。
 名護市辺野古への新基地建設だけではない。伊江島補助飛行場内では機能強化を目的に滑走路と離着陸帯の改修が進められている。自衛隊は防衛力の南西シフトとして、宮古島や八重山諸島への部隊配備を推し進めている。
 県民は復帰に際し、米支配からの脱却と、沖縄戦の悲劇を二度と繰り返さない平和の到来を何より願った。だが、沖縄の民意より日米安保の安定を優先する政治が続き、沖縄の自治は踏みにじられる。
 象徴的なのは、新型コロナウイルスの感染防止対策で県が独自の緊急事態を宣言した翌日に、安倍政権が辺野古新基地建設を巡る設計変更を抜き打ち的に県に申請したことだ。全都道府県が懸命にコロナ対策に取り組んでいるさなかである。国と県の関係は正常な在り方とは程遠い。
 政府の強権的な姿勢は、日本社会にはびこる「沖縄ヘイト」を助長してもいる。ここまで差別的な扱いを受け続けると、帰ることを切望した「祖国」とは何だったのかという失望感にとらわれる。
 それでも、48年前に県民が成し遂げた歴史的な意義を見失うわけにはいかない。
 米軍優先の圧政にあらがい、人権と民主主義の適用を求めて声を上げた。沖縄の粘り強い運動がついに超大国の米国をも動かし、沖縄の施政権を日本に返還させるという道を切り開いた。
 復帰当日の式典で屋良朝苗知事は「復帰とは、沖縄県民にとって自らの運命を開拓し、歴史を創造する世紀の大事業でもあります」と述べた。復帰の内実は県民の要求とかけ離れた不十分なものであったが、理不尽な現実を変えていく努力をあきらめてはいけない。
 沖縄の進路を決めるのは県民自身だ。基地のない平和な島という理想の実現に向けて、自立と平和を求める歩みは今も続いていることを確認したい。