●(社説)統一で得た自由の値打ち
2020年10月4日 東京新聞
ドイツ統一から3日で30年。統一により、社会主義国家だった東ドイツにも行き渡った自由は、民主主義の根幹をなす重要な価値観です。ポピュリズムや不寛容が広がりつつある今こそ、自由の値打ちを見直したい。
民主化要求運動の勢いに押され1989年11月9日、東西ドイツの国境を隔てていた壁が崩壊しました。その一年後の90年10月3日、西独が東独を編入する形でドイツ統一が実現しました。
東西の格差など統一のひずみはありましたが、旧東独地域は豊かになっていきました。
◆メルケル首相の訴え
象徴的なのが、ドイツ人がこよなく愛する車です。
東独時代は国民車とされた「トラバント」一択でした。強化プラスチック製で、操作もスムーズにいかず、黒い排ガスをまき散らし大気を汚染していました。それでも、注文から引き渡しまで10年以上かかるとされていた高根の花でした。
これに対し現在は、ベンツ、BMWなど国内の高級車、日本車などの外車から選び放題です。
東独市民が統一後に得たものはモノだけではありません。自由への翼こそ、かけがえのないものでした。
新型コロナ対策で、ドイツでも行動が制限されました。メルケル首相は「私たちにとって、渡航や移動の自由は苦難の末に勝ち取られた権利でした。そういう経験をしてきた者にとって、こうした制約は、絶対的な必要性がなければ正当化し得ないものなのです」と対策への理解を訴えました。東独育ちのメルケル氏は、自由の尊さを痛感していました。
自由のない画一的な社会とは、どのようなものだったのでしょうか。ある歌が象徴しています。
「党がすべてを与えてくれた。太陽も風も。惜しむことなく。党がある所に命がある。党があるからわれわれは存在する。党が見捨てることは決してない。…党よ、党よ、いつも正しい党よ」
東独の公式行事などで、行進曲のような威勢のいいリズムに乗って奏でられてきました。事実上、一党独裁だった「ドイツ社会主義統一党」の党歌です。
赤面したくなるような妄信的な歌詞ですが、東独市民らは大真面目に歌っていました。なぜでしょうか。
市民らは、国境の壁や越境者銃殺などの弾圧による恐怖、反体制活動を監視する秘密警察(シュタージ)に抑え込まれていました。
◆不承不承の協力者
しかし、人々を「党の歌」などへの同調に追い込んだのは、力だけではありませんでした。
東欧を支配していたソ連型共産主義について米国の歴史家アプルボーム氏は「多くの政治的無関心な人間を糾合し、これといった抵抗もなく協力を取り付ける」という特徴を指摘します(「鉄のカーテン 東欧の壊滅」、白水社)。
秘密警察への恐怖に加え、権力を礼賛するスローガンがあらゆる集会や行事で繰り返し流され、反対する気力を奪いました。「再建」などのスローガンは期待も抱かせました。こうして体制に同調していくことを、同氏は「不承不承の協力」と呼び、ある週刊紙の編集者らを具体例に挙げます。
体制への異論は封じて、掲載記事は「政治とは無縁のはけ口」として園芸や旅行などの趣味的な内容に限り、当局を忖度(そんたく)しながら記事をまとめました。
一方で記者らは、取材を名目に旅行の自由を楽しみ、保養施設などの手厚い福利厚生を享受することができました。
自由を抑圧していたのは指導部だけではありません。アメとムチで動かされた市民らによって、支えられていた面もあったのです。
今、東独市民が取り戻した自由や多様性をないがしろにするような出来事が相次いでいます。
旧東独地域では、反難民移民を訴える右翼団体「ペギーダ」が結成され、排外主義の右翼政党「ドイツのための選択肢」が躍進しました。
やはり民主化したはずのハンガリーやポーランドの政権は強硬姿勢を強めています。
◆政治的無関心に警戒を
1949年10月に建国された東独で、民主化運動が本格化したのは40年後でした。一度失った自由を回復するのは難しく、時間もかかります。
愚かな歴史のひとこま、とひとごとのように受け流すことはできません。残念ながら日本でも、忖度が民主主義を損なう事例が相次いでいます。
「いつも正しい党よ」と合唱するような社会はご免です。「政治的無関心」に付け込まれることなく、自由の尊さをかみしめ、守る決意を新たにしたい。30年前に消滅した東独を教訓にして。
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