臨界の残像 JCO事故20年

1 タブーだった被ばく医療 当時の医師「人命軽視だった」 教訓生かされたか  
                     毎日新聞
2019921

 日本の原子力産業で、初めて被ばくによる死者が出たのが、1999年に起こったJCO臨界事故だった。この20年の間に、福島第1原発事故も発生。二つの原子力災害から浮かび上がる課題を追った。
「バシッ」。99930日、核燃料を加工していた「ジェー・シー・オー(JCO)」東海事業所(茨城県東海村)で異音とともに青い閃光(せんこう)が放たれた。その瞬間、放射性物質のウラン溶液を扱う作業中だった社員の大内久さんと篠原理人(まさと)さんの体を、強烈な放射線が通過した。
 核分裂が連鎖的に続く「臨界」状態が生じ、放射線を遮るものがない「裸の原子炉」ができあがっていた。被ばくした大内さんらを治療したのが、東京大病院で救急部・集中治療部長を務めていた前川和彦さん(78)だった。「やけどの専門家である私でさえ、毎日驚くような患者の変化だった。治療は海図のない航路だった」
 急性の大量被ばくで、大内さんらの体は新たな細胞を作れなくなった。日焼けしたような肌は徐々に皮がむけて水ぶくれのようになっていた。

 搬送された当初、大内さんは前川さんが「本当に大量に被ばくしたのか」と思うくらい落ち着き、意識もはっきりしていた。しかし、入院4日目には検査の多さに「おれはモルモットじゃない」と訴えた。
 数日後には薬の影響もあって徐々に意識が遠のいた。医療スタッフによる大内さんの83日間の治療記録には、刻々と変化していく体の状態が記されている。A4判用紙に印刷すると400ページ超。大内さんは9912月に当時35歳で、篠原さんは翌年4月に同40歳で亡くなった。

 臨界事故前までは国内で原子力事故は起きないとされ、「被ばく医療」という言葉は安全神話の中でタブーだった。95年の阪神大震災をきっかけに、原子力災害時の医療が議論された時も「被ばく」の表現を避け「緊急時医療」と呼ばれた。「『海図』以前に、船自体の整備が進んでいなかったようなもの」(前川さん)だった。
 そんな中で臨界事故が起きた。東海村消防本部に入った救急搬送の要請内容は「てんかんのようだ」。情報が入り乱れ、現場は混乱。臨界事故と知らされず、救急隊員も被ばくした。受け入れ先が決まったのは事故から約75分後。入院した社員3人の本格的な医療体制が組まれたのは、事故翌日からだった。

 急性放射線障害の治療例は海外でも少なく、治療はいろいろな文献を見ながら手探りで進められたという。
 事故を受け、政府は9912月に原子力災害対策特別措置法を制定。急性被ばく患者を受け入れる医療機関を、徐々に原発の周辺地域で指定していった。
 急性被ばくを念頭に、こうした医療機関のスタッフや立地自治体や消防、警察の職員らが、定期的に開かれていた公益財団法人「原子力安全研究協会」の講習などに参加。事故に備えたはずだった。
 ところが、2011311日の東京電力福島第1原発事故では、放射性物質が広範囲に拡散。これらの医療機関も避難指示区域に含まれてしまい、病院としての機能を果たせなくなった。避難区域外でも、除染設備がなく住民の診療を断った災害時対応の病院があった。
 その反省から原子力規制委員会は福島事故後、急性被ばくだけでなく、原発周辺の住民の除染も考慮した新たな医療体制の整備を目指した。原子力災害医療の中心となる「原子力災害拠点病院」を全国の約50病院に、拠点病院を支援する「協力病院」を約300病院に、それぞれ担ってもらう体制になっている。
 佐賀県唐津市の唐津赤十字病院は、九州電力玄海原発周辺に5カ所ある原子力災害拠点病院の一つだ。同病院に勤める医師、酒井正さん(57)は万が一の事態で、住民1人の除染に最低1時間かかると見る。「通常の救急でも数十人でパンクする。除染が必要となれば、対応は1日に10人ほどが限界だ」
 原子力災害はめったに起きないが、対応には高度な専門知識を要する。拠点病院では、スタッフ全員に被ばく医療への対応が求められている。しかし、病院によっては研修に毎回、同じ顔ぶれが参加するなど広がりに乏しいところがある。
「半分ボランティアのよう。携わる人の使命感で成り立っている」。酒井さんは、限られた人材に支えられる現状に危機感を抱く。
 規制委は一時、拠点病院を広げようと診療報酬を加算できないか検討したが、実現していない。危機感を抱くのは、規制委の緊急事態応急対策委員を務める医師の浅利靖さん(58)も同じだ。「人が足りず現場の頑張りに頼っている」
 今も埼玉県内の病院で患者と向き合う前川さんは「各地に高度な被ばく医療の治療体制を準備させるのは負担も大きい」と話す。原子力災害時に重要なのは、住民に除染が必要かの判断や、必要だった場合に簡単な除染をすることだと指摘。「災害の場所によって柔軟に対応できるよう、高度な医療はより集約すべきだ」と考えている。「原子力防災の施策の中で、あまりにも人命軽視がはなはだしい」。大内さんの死亡後に前川さんが訴えた言葉だ。そのきもちは、ますます強くなっているという。教訓は生かされているのだろうか。

2 変わらない原子力の現場 元作業員「放射線の怖さ 教えてもらえなかった」
                           毎日新聞2019922

 「放射線から正しく身を守る方法について、誰かに教えてもらったことはなかった。現場ではそれが普通のことで、その怖さを理解しきれていなかった」
 九州電力玄海原発(佐賀県玄海町)で下請け作業をし、東京電力福島第1原発(福島県)では廃炉作業に携わった作業員の男性(45)=北九州市=は、自らが経験した現場を振り返った。
 2012年になって、しばらくしてからだった。玄海原発の構内で、男性は同僚と配管を固定したり、無造作に置かれていた70センチほどの大きさの切断機20機余りを解体したりする作業をした。
 男性によると、切断機は、放射性物質で汚染された配管などの切断用で、作業で付着した粉じんで機材自体も汚染されていたという。「被ばくを防ぐために支給されていたのは、鼻と口だけを覆う半面マスク。解体では、機材に付着していた配管の切りくずや粉じんが舞って吸い込む恐れがあるため、顔全体を覆う防護マスクを着用しなければならなかったが、その指導はなかった」と語った。
 男性は危険な作業と知らず、作業をしていた。「元請け業者らから、解体作業に関する注意もなかった」と話す。
 男性は造船の現場などで溶接の仕事に携わってきた。113月の福島第1原発事故を目の当たりにし、「東北の役に立ちたい」と家族の反対を押し切って原子力産業に足を踏み入れた。
 実際に原発の現場に行くと、思いのほか安全対策はずさんな感じがしたという。男性は福島第2原発で作業した際、「個人線量計を持っていたのは現場監督のみだった」と話す。「ピーピー」とたびたび警報音が鳴ったが、監督は「大丈夫、大丈夫」と言い、スイッチを解除したという。
 「第1原発では、放射線を遮蔽(しゃへい)するための鉛が入ったベストが不足していた。作業時には着ることになっていたが、現場監督に『着らんでもこっそり入れ』と言われたことがあった」と証言する。
 男性は141月、急性骨髄性白血病と分かった。目の前が真っ暗になった。原発で作業した計2年間の被ばく線量は、累積で約20ミリシーベルト。1510月に労災が認められた。
 九電と東電には「現場での監督が行き届いていない」として損害賠償を求め、東京地裁に提訴した。九電側は「半面マスクで解体作業をさせることはない」と主張、東電側も「放射線から保護するための作業衣の着用を指導している」と反論している。両社とも男性の言い分とは食い違いがあり、訴訟は続いている。
 男性は通院生活が続く。「僕ら作業員は捨て駒みたいなものだ」と話した。

 最前線で働く人に「教育」という配慮が著しく不足していたのは、20年前も同じだ。
1999月、核燃料の加工をしていた「ジェー・シー・オー(JCO)」東海事業所(茨城県東海村)で起きた臨界事故。作業効率を優先し、事故の1年以上前から「裏マニュアル」による違法な作業が常態化していた。事故により、作業していた社員人が放射線を浴びて入院。2人が亡くなった。
 1人は治療の末、約3カ月後に退院。「(事故原因は)『無知』だった」。事故から6年がたった05年、この男性作業員は毎日新聞のインタビューにそう振り返った。臨界の危険性について指導はなく、安全な作業をしているという思い込みがあったという。
 10年からJCOで社長を務める桐島健二さん(63)は、現場への目配りを怠った事故を反省しながら「人間はつい安易な方向に流される。それをいかに止めるかが難しい。20年前は『臨界事故は起こらない』という考えがまん延していた」と語った。
 福島第原発事故の後も、放射性物質を取り扱う施設でずさんな行為が後を絶たない。
 今年月には、日本原子力研究開発機構の核燃料サイクル工学研究所(東海村)で放射性物質の漏えい事故が発生。作業員が一部の確認手順を省いたため汚染が拡大した。
  この事故について原子力規制委員会は月、機構に対し現場の作業員らに繰り返し教育、訓練をして、習熟させることの重要性を強調する見解をまとめている。
 多くの人が働く原子力の巨大なシステムで、繰り返される横着な作業。作業員らの労働環境について約10年間、相談にのってきた福島県いわき市の渡辺博之市議(54)は「現場に即した具体的な注意喚起が足りない」と話す。
 原発作業員の労働問題に詳しい縄田和満・東京大教授(計量経済学)は現場の課題について、「なぜその作業が必要なのかなど教育が行き届いていない。具体的な指導を徹底していくべきだ」と指摘する。

 3 「そんなにやばいことが」情報なく 住民避難 福島事故でも浮かぶ課題
                        毎日新聞2019923

 1999930日午前1035分ごろ、茨城県東海村で臨界事故が起きた。「情報が乏しく、どうしていいか分からなかった」。原子力関連施設が並ぶ海沿いから内陸へ約5キロ入った茨城県東海村の市街地。そこで旅館を営む坂場誠さん(57)が覚えている印象だ。
 坂場さんは防災無線で事故発生を知ったが、「場所は(原子力関連施設が多い)どうせ海側だろう」と思っていた。昼過ぎ、テレビ局の電話取材で、事故現場が旅館から約400メートル離れたジェー・シー・オー(JCO)東海事業所と知った。
 旅館の近くに国道6号が通る。交差点を見ると、交通整理をする警察官の姿があり、上空にとどまるヘリコプターのプロペラ音が響いていた。どんどん物々しくなっていったのを覚えている。
 近くでいつも通りに働く建設作業員の横を、JCOの社員らが逃げていった。「そんなにやばいことが起きているのか」。放射線には色もにおいもない。旅館には宿泊客もいたままだった。「宿泊客を置いたまま、私たちだけ逃げるわけにはいかない」。夕方になって、子ども3人だけを約30キロ離れた妻の実家に避難させた。
 妻は昨年7月、大腸がんで亡くなった。死因は事故と無関係だが、20年前に避難しなかったことが心のつかえになっている。「避難しなかった罪悪感が私の心に1本のクギのように引っかかってしまっている」
 東海村は57年、日本で最初に実験用原子炉が運転を始めた原子力推進の象徴的な地だった。
 そこで起きた臨界事故の一報が村にもたらされたのは、発生から約1時間後。「臨界事故らしい」という断片的で限られた情報だった。しばらくして、現場近くで測定された放射線量の値が送られてきた。「毎時0.84ミリシーベルト」
 午後2時。JCOの社員2人が真っ青な顔で村役場5階に設けられた災害対策本部に飛び込んできた。「村の人たちを避難させてください」。当時、村長だった村上達也さん(76)が「(親会社の)住友金属鉱山やJCOの社員たちはどうしているんだ」と尋ねると、「みんな避難しています」という返事だった。
 村上さんは、村長就任時に周囲から「原子力を頼む」と言われたことも頭をよぎったという。しかし、JCO社員の返事に驚き、憤りと村民への思いで、原子力事故で国内初の避難要請を決断した。村長を辞める覚悟だったという。午後3時、事業所から半径350メートル圏内に避難を要請。県による10キロ圏内の屋内退避勧告は、午後10時半になってからだった。
 避難に必要な情報伝達が遅れた臨界事故の教訓を受け、20006月に原子力災害対策特別措置法が施行。自治体が関係機関と協力し、対策拠点の「オフサイトセンター」を設けて住民避難などの対応に当たるよう求められた。
 各地で原発事故を想定した避難訓練も実施されるようになる。0607年に福島県が取り組んだ訓練では、実践的になるよう住民にあらかじめ内容を伝えないといった工夫もあった。
 福島県によると当時、地震などの自然災害と原発事故が同時に起きる「複合災害」の視点は抜け落ちていたという。担当者は「広域で逃げることも考えていなかった」と証言する。
 その頃、新潟県は経済産業省の旧原子力安全・保安院に原子力災害と自然災害の複合災害への対応の検討を要望していた。07年に中越沖地震があり、東京電力柏崎刈羽原発での火災を経験していたからだ。
 しかし「原発は耐震構造になっており、複合災害の蓋然(がいぜん)性は極めて低い」として旧保安院は1010月、「自然災害が原子力災害を引き起こす可能性はほぼゼロに等しい」と判断。複合災害や広域避難の備えがないまま113月、東電福島第1原発事故を迎えた。

 福島事故後に発足した原子力規制委員会は、原子力災害対策指針を策定。複合災害も考慮し、事故の際は原発の状況に応じて広域で段階的に避難することを示した。

 それでもなお、浮かび上がる課題がある。
 原子力災害に詳しい東京大総合防災情報研究センター准教授の関谷直也さん(44)らは、福島事故避難者に聞き取りなどを重ねた。14年の調査では、日がたつにつれ避難所よりも親族や親戚の家へ避難する傾向が分かった。別の調査では、こうした避難期間が1年超と長期化していたことも判明した。
 規制委が指針作成で参考にした国際原子力機関(IAEA)のガイドは、避難した住民がすぐに帰宅できた米スリーマイル島原発事故などを踏まえてまとめられていた。自治体の避難計画も規制委の指針が基準になっており、関谷さんは「福島原発事故の教訓を踏まえていろいろな避難を検討しておかないと、いざという時に対応できなくなる」と懸念する。
 東海村のJCO東海事業所は今、施設の解体作業をしながら、その過程で生じた行き場のないウラン廃棄物などを保管している。現在の山田修村長(58)は8月、「原子力の安全対策の道のりは険しく、終わりがない」と定例記者会見で語った。

(この連載は荒木涼子、岩間理紀、奥山智己、鳥井真平が担当しました)