(社説)沖縄慰霊の日 日本のあり方考える鏡  20190622 朝日新聞

沖縄はあす、「慰霊の日」を迎える。

第2次大戦末期の3カ月超に及ぶ地上戦で20万人以上が亡くなった。日本側の死者18万8千人のうち、沖縄県民が12万2千人を占める。県民の4人に1人が犠牲になったといわれる。
 なぜこんな凄惨(せいさん)な事態を招いたのか、原因は様々だ。
個を捨て国家に殉ぜよという教育。戦局について虚偽情報を流し続けた果ての疎開の遅れ。本土侵攻を遅らせるために沖縄を「捨て石」にした作戦――。県民の命や権利よりも政府・軍の論理と都合が優先された。15歳の少年や高齢者も現地召集され、女子生徒も構わず激戦地にかり出された。法的根拠のない「根こそぎ動員」だった。兵役年齢を広げ、女性にも戦闘部隊入りを義務づける法律が公布されたのは6月下旬。沖縄での日本軍の組織的戦闘が既に終わったころだった。それから74年。国策の名の下、県民を顧みず、定められた手続きなどに反しても、正当化して平然としている国の姿が、いまも沖縄にある。辺野古をめぐる状況もその一つだ。
 仲井真弘多(なかいまひろかず)知事(当時)が埋め立てを承認した際に条件とした県と国の事前協議などは、事実上ほごにされた。環境保全のため、埋め立て用の土砂が申請通りの成分になっているかを確認したいという県の求めを、国は無視し続ける。今月からは、県に提出した説明書とは異なる護岸を使って、土砂の陸揚げ作業を新たに始めた。
 玉城デニー知事が「国は法令順守の意識を欠いている」と批判するのはもっともだ。
 辺野古だけではない。
今月初め、浦添市の中学校のテニスコートに、米軍ヘリの部品のゴム片が落下した。米軍は「人や物に脅威をもたらすものではない」というが、県議会は自民党を含む全会一致で抗議の意見書と決議を可決した。
 学校上空を飛ぶのを「最大限可能な限り避ける」と約束しながら一向に守らず、事故を繰り返す米軍。手をこまぬいたまま、原因が究明されなくても飛行を容認する政府。両者への怒りと失望が、党派や立場を超えて意見書に凝縮されている。
 戦後、基地建設のため「銃剣とブルドーザー」で土地を取り上げた米軍への反対闘争にかかわった故国場(こくば)幸太郎さんが、本土復帰直後に若者向けに書いた「沖縄の歩み」が、岩波現代文庫から今月復刊された。
「まえがき」にこうある。
「沖縄の歴史を知ることは、(略)日本の真実の姿に照明をあて、日本の前途を考えるためにも必要なことです」
その言葉は、胸に一層響く。
 【主張】沖縄戦終結74年 静かな環境で追悼したい  20190623産経新聞

沖縄は23日、戦後74年の慰霊の日を迎えた
 昭和20年4月に沖縄本島に上陸してきた米軍を迎え撃った地上戦は熾烈(しれつ)を極めた。組織的戦闘が終結した6月23日までに日本の将兵と県民18万8千人が亡くなった。米側戦死者を合わせ20万人以上が命を落とした。
 沖縄戦は、国民が忘れてはならない悲劇である。

 日本軍の牛島満司令官が自決した地である糸満市摩文仁の平和祈念公園では、沖縄全戦没者追悼式が営まれ、遺族や安倍晋三首相、玉城デニー知事らが参列する。
 心静かに戦没者を悼む日にしたい。追悼の場に政治的な問題を持ち込み、意見を異にする立場の非を鳴らす行為は厳に慎みたい。
 ところが、昨年まで知事だった翁長雄志氏は、毎年追悼式で読み上げる「平和宣言」の中で、米軍普天間基地の辺野古移設を批判してきた。

 戦没者への追悼の言葉を述べる安倍首相に対し、辺野古移設反対派と思われる参列者から、「帰れ」などの心ないやじが毎年のように飛んでいる。
 極めて悲しい出来事だ。追悼式を知事が政治的発信の場としたり、参列者のやじにより厳粛さを損なわせたりしていいわけがない。翁長氏の後継として当選した玉城知事だが、平和宣言の政治利用は踏襲しないでもらいたい。
 玉城氏は5月末の記者会見で、尖閣諸島(石垣市)海域で日本の漁船が中国海警局の公船に追尾されたことについて、「中国公船がパトロールしているので、故意に刺激するようなことは控えなければならない」と述べた。
 尖閣とその海域は日本の島であり海である。中国公船にパトロールする権利など全くない。

 石垣市議会が抗議の決議をしたことを受け、玉城氏は発言を撤回した。知事であるにもかかわらず、沖縄の島と海が中国に狙われている危機感が足りない。
 平和を守るためには、外交努力に加え、抑止力の確保が欠かせない。実力部隊である在沖米海兵隊の存在も、その一翼である。
 沖縄が大きな米軍基地負担をしていることは事実だ。
 住宅密集地にある普天間飛行場の辺野古移設は、普天間周辺に暮らす県民の負担軽減と同盟の抑止力を両立させる現実策である。これに反対するため戦没者追悼式を利用していい話ではない
 社説)慰霊の日 沖縄戦の教訓継承したい  20190623日 琉球新報

 沖縄戦の組織的な戦闘が終結してから74年となった。きょう23日、糸満市摩文仁で沖縄全戦没者追悼式が行われ、県内各地の慰霊碑でも祈りがささげられる。
 親族の名が刻まれた平和の礎をなぞる高齢者の姿は年々少なくなっているように見える。本紙連載の「未来に伝える沖縄戦」で語る戦争体験者も最近はほとんどが当時子どもだった。体験者が減る中、戦争の悲惨さと、二度と戦争をしてはならないという思いを、確実に次世代へとつないでいかなければならない。
 今年の慰霊の日は、安倍晋三首相が悲願とする憲法改正が争点となる参院選が翌月にも控える。自民党は憲法9条に自衛隊を明記して「早期の憲法改正を目指す」とし、主要争点とする構えだ。安倍内閣が閣議決定で集団的自衛権の行使を認めたことは違憲と指摘されている。改憲によって正当化したいのだろうか。
 軍隊を強くし、個人の尊厳より国益を優先する。現政権の姿勢に戦前の日本のありようが重なる。その帰結は沖縄戦であった。
 沖縄戦は日本兵よりも県民の死者がはるかに多かった。おびただしい数の住民が地上戦に巻き込まれたからだ。沖縄県史によると、沖縄戦での一般県民の死者は9万4千人、これに県出身の軍人・軍属約2万8千人が加わる。他都道府県出身兵は6万6千人弱だ。
 沖縄の防衛に当たる第
32軍と大本営は沖縄戦を本土決戦準備のための時間稼ぎに使った。県出身の軍人・軍属には、兵力を補うために防衛隊などとして集められた1745歳の男性住民が含まれる。沖縄戦ではこうして住民を根こそぎ動員した。
 さらにスパイ容疑や壕追い立てなど、日本軍によって多数の県民が殺害されたのも沖縄戦の特徴だ。
 住民は日本軍による組織的な戦闘が終わった後も、戦場となった島を逃げ回り、戦火の犠牲になった。久米島の人々に投降を呼び掛け、日本兵にスパイと見なされて惨殺された仲村渠明勇さんの事件は敗戦後の8月18日に起きた。
 戦後、沖縄は
27年も米施政権下に置かれ、日本国憲法も適用されず、基本的人権すら保障されなかった。沖縄が日本に復帰した後も米軍基地は残り、東西冷戦終結という歴史的変革の後も、また米朝会談などにみられる東アジアの平和構築の動きの中でも在沖米軍基地の機能は強化され続けている。
 74年前、沖縄に上陸した米軍は以来、居座ったままだ。米軍による事件事故は住民の安全を脅かし、広大な基地は県民の経済活動の阻害要因となっている。沖縄の戦後はまだ終わっていない。
 「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓を、無念の死を遂げた沖縄戦の犠牲者への誓いとして、私たちはしっかり継承していかねばならない。

 (社説)[きょう慰霊の日]埋もれた声に思い寄せ  20190623日 沖縄タイムス

 「十・十空襲」の後、北部への避難を決めた家族に向かって、視覚障がいの女性が「自分を置いて早く逃げて」と言った、その言葉が心に刺さったという。周りに迷惑をかけたくないとの思いが痛いくらい分かったからだ。
 「僕だったらどうしただろう」
 南風原町に住む上間祥之介さん(23)は、障がいのある当事者として障がい者の沖縄戦について調査を続けている。
 発刊されたばかりの『沖縄戦を知る事典』(吉川弘文館)では「障がい者」の項を担当。母親が障がいのある子を「毒殺する光景を目の当たりにした」という証言や、自身と同じ肢体不自由者が「戦場に放置されて亡くなった」ことなどを伝える。
 国家への献身奉公が強調され、障がい者が「ごくつぶし」とさげすまれた時代。これまでの聞き取りで浮き上がってきたのは、家族や周囲の手助けが生死を大きく分けたという事実である。

 「戦争では皆、自分が逃げるのに精いっぱい。真っ先に犠牲になるのは障がい者や子どもやお年寄り」
 沖縄戦における障がい者の犠牲は、はっきりしていない。当時の資料も証言も少ない。話すこと、書くことが難しかったという事情はあっただろうが、沈黙を強いているのはその体験の過酷さである。
 優生思想は決して過去のものではない。もし今、自分の住む町が戦場になったら…。上間さんは戦争と差別という二重の暴力の中で「語られなかった体験」の意味を考え続けている。
沖縄盲学校の教師を長く勤め、視覚障がい者教育に尽くした故中村文さんは、戦後、盲学校が再建されるまでの苦労を講演などでよく語った。
 中村さんが盲教育に情熱を傾けるようになったのは、戦地で失明した弟の帰郷がきっかけである。
 盲唖学校再建の陳情書を作成し、軍政府や民政府に再三足を運ぶが、なかなか取り合ってもらえず、設立の許可が下りたのは1951年のこと。普通学校より6年遅れての再開だった。
 戦時中の障がい者の苦労を知っていたからだろう。開校1周年に合わせ中村さんが作詞した校歌には「平和の鐘を聞く時ぞ」のくだりがある。

 当時の思いを自著で「集まった生徒、父兄、職員は、鉄の暴風の吹きあれる中を生きのびてきた者たち。平和の鐘を聞くことのできる喜びは例えようもありませんでした」とつづっている。おととし43年ぶりに刊行された『県史 沖縄戦』は、これまで取り上げられることの少なかった「障がい者」や「ハンセン病」「戦争孤児」などにまなざしを向けた。
 体験を語れなかった、語ろうとしなかった人たち。戦場に放り出され、十分な保護を受けることができなかった人たち。
 彼ら、彼女らの戦中・戦後の苦難に触れることによって、私たちは沖縄戦の多様な実相を学ぶことができる。それは今も残る差別の問題を学び直すことでもある。
 きょうは「慰霊の日」。

(社説)慰霊の日 沖縄の負担軽減へ対話重ねよ 2019年6月24日 読売新聞

 沖縄県が抱える過重な米軍基地の負担を軽減することが重要である。政府と県は対話を重ね、着実に推進すべきだ。太平洋戦争の沖縄戦の犠牲者を悼む「慰霊の日」の23日、沖縄全戦没者追悼式が糸満市で開かれた。住民を巻き込んだ苛烈な戦禍を思い起こし、平和への願いを新たにする日である。
 安倍首相はあいさつで、「政府として基地負担の軽減に向けて、一つ一つ確実に結果を出していく決意だ」と述べた。安倍内閣の下、北部訓練場(国頭村、東村)の4000ヘクタールの返還などが実現した。だが、日本にある米軍施設の約7割がなお、沖縄に集中している。引き続き米軍施設を整理・縮小するため、首相は指導力を発揮すべきだ。米軍と緊密に連携し、沖縄で行われている飛行訓練の他基地への移転も進めなければならない。学校や住宅地に囲まれた米軍普天間飛行場(宜野湾市)の代替施設を名護市辺野古沿岸部に建設中だ。騒音被害や事故の不安を軽減する意義は大きい。尖閣諸島(石垣市)周辺では、中国公船が活発に活動している。警戒を怠れない。日本の安全を守る上で、在日米軍の抑止力を維持することが不可欠だ。辺野古への移設計画は、危険性除去と安全保障上の要請という、双方の観点を踏まえた現実的な選択肢と言えよう。辺野古沿岸部では昨年12月に土砂の投入が始まり、埋め立て工事が進む。移設を阻止するため、玉城デニー県知事は様々な訴訟を検討中だ。前知事同様、法廷闘争を繰り返して国と対立を続ければ、混乱を広げるだけだろう。政府は、県や宜野湾市との協議を通じ、移設の意義を粘り強く訴えていくことが肝要だ。
 首相と玉城氏が意思疎通を図ることも欠かせない。危険性を除去するという共通認識に基づき、打開策を探る必要がある。沖縄では、米軍人・軍属が刑事事件や重大な交通事故などを起こすケースが後を絶たない。政府は米側に綱紀粛正を求め続けていかなければならない。沖縄県にとって、県民の暮らしの向上も大切な課題である。観光産業は好調だが、経済は総じて脆弱(ぜいじゃく)だ。1人当たりの県民所得は全国最低で、非正規雇用も多い。
 交通インフラの整備や企業の誘致、人材育成などが必要だろう。玉城氏には、政府と協力し、沖縄の未来を見据えた政策を進めることが求められる。