(社説)沖縄復帰47年 憲法との間の深い溝
                         2019年5月15日       朝日新聞 

 沖縄が日本に復帰して、きょうで47年になる。
 だが、本当に「復帰した」と言えるのか。沖縄の現実はそんな問いを突きつける。

 米軍施政下にあった沖縄の人々が希求した復帰とは、日本国憲法の下にある社会でくらすことだった。当時の屋良朝苗(やらちょうびょう)知事は式典で「取り残されてきた歴史に終止符を打つ」と、未来への希望を語った。しかし……。
 憲法がかかげる平和主義、基本的人権の尊重、地方自治の保障。そうした理念や原則から、いまなお取り残されているのが実態ではないか。
 国土面積に占める割合が0・6%の沖縄に、米軍専用施設の70%が集中する。その比率は復帰前よりむしろ高くなり、米軍絡みの事件事故は絶えない。
 普天間飛行場周辺での騒音発生回数は、18年度で1万1404回。前年度より13%増えた。嘉手納基地周辺では減ったが、滑走路の改修工事が始まったためとみられ、14〜17年度はいずれも2万回を大きく超えている。夜間早朝の飛行制限協定は名ばかりで、18年度の離着陸回数は普天間で618回(前年度比49増)、嘉手納では1546回(同21増)を数えた。
 航空機騒音に詳しい松井利仁北大教授の推計によると、嘉手納周辺の住民1万7千人が睡眠を妨げられ、年に10人が心臓疾患で死亡しているという。
 嘉手納町は今年度、住民に聞き取りをして健康被害などを調べる。かねて政府に調査を求めてきたが応じないため、独自に取り組むことにした。
 「沖縄に寄り添う」と繰り返し、負担軽減を約束しながら、現実を見ることを拒む。国民の生命・身体を守るべき政府がとる態度とは到底言えまい。最近は「寄り添う」という言葉を使うことすらしなくなった。
 国政の権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する――。憲法前文のこの一節を、政府・与党の幹部は読み直す必要がある。
 知事選や国政選挙、ことし2月に全県で実施された県民投票などを通じて、幾度となく示されてきた沖縄の思いは一顧だにされず、きのうも辺野古での埋め立て作業は進められた。
 玉城デニー知事は「民意を無視して工事を強行することは、民主主義を踏みにじり、地方自治を破壊する」と訴え、これが許されるなら「他の自治体でも同様のことが起こりかねない」と警鐘を鳴らす。
 沖縄への無関心、不作為は、この国に何をもたらすのか。そんな想像力と問題意識をもって、沖縄の過去、そして現在に目を凝らし続けたい。

 (社説)沖縄と日米地位協定 国は不平等の現実直視を

                            2019年5月15日  毎日新聞
 沖縄は1972年5月15日に本土復帰を果たしてから47年を迎えた。
 沖縄の経済は近年、海外からの観光客増加などにより好調だ。全国的に人口減少が進む中、沖縄県の人口は高い出生率や県外からの移住者に支えられ増加傾向が続く。
 そんな元気な沖縄なのに、政治的には米軍基地問題の文脈で語られることが多い。普天間飛行場の辺野古移設をめぐっては政府と県の対立が先鋭化している。沖縄のエゴだと批判する心ない声も聞こえてくる。
 では、沖縄が辺野古移設をこれほどまでに拒む理由をどう考えるべきか。それは単に在日米軍施設の7割が集中するという数字の話ではない。基地があることによって穏やかな日常を壊す騒音に囲まれ、繰り返される事件や事故の多さを肌身で感じているからだろう。
 その矛盾を考えていくと、在日米軍に大きな特権を認めた日米地位協定の問題に突き当たる。米軍に日本の国内法を適用せず、基地への立ち入り調査を拒否する排他的管理権まで認めた地位協定の不平等性は明らかだ。にもかかわらず、県側がいくら協定の見直しを求めても指一本触れようとしない政府の姿勢が沖縄の不信感を高めている。
 そこで県側はドイツ、イタリア、ベルギー、英国の現地調査を行い、先月、報告書を発表した。
 日本と同じ第二次大戦の枢軸国だった独伊も含め、駐留米軍に国内法を適用することを原則としていた。米軍の訓練には受け入れ国側の承認が必要とされ、夜間や低空の飛行訓練は厳しく制限されている。
 ところが、河野太郎外相は県の報告書について北大西洋条約機構(NATO)の加盟国が相互防衛義務を負っていることを挙げ「比較することに全く意味はない」と強弁した。
 日米安全保障条約によって日本は相互防衛ではなく基地提供義務を負うから、米軍に国内法が適用されないのも仕方ないと言っているに等しい。その結果、米軍による基地利用や訓練に国会は関与できず、地位協定に基づく日米合同委員会の決定が治外法権のようにまかり通る。
 政府は地位協定を根源とする不平等の現実を直視し、国民全体の問題として協定の見直しに取り組むべきだ。沖縄の本土復帰の日に思う。

 (社説)沖縄復帰47年 真に憲法の仲間として  
                                  2019年5月13日 東京新聞
 

 沖縄は15日、本土復帰47年を迎える。しかし、沖縄の人権や自治は今なお、日本国憲法の外にある状況ではないか。復帰の意味を問い直すときだ。
 沖縄県読谷村(よみたんそん)。太平洋戦争末期、米軍が沖縄本島で最初に上陸した村の役場前に高さ3メートルほどのコンクリート柱が立っている。
 憲法9条の碑。「日本國(こく)民は正義と秩序を基調とする國際平和を…」。旧字体で条文を刻んだ金属板が埋め込まれ、柱の上には植物の萌芽(ほうが)のごとく九条の精神が世界に満ちるように、との願いを込めた彫刻が掲げられている。

◆輝かしい命
 建立は戦後50年に当たる1995年。「沖縄の人々にとって日本国憲法は輝かしい命そのものだった。人間が大事にされ、戦争をしない国になるという希望を与えてくれた。戦後の米国統治下の沖縄の復帰運動は、日本国憲法の下への復帰を目指すものでもありました」。当時読谷村長だった山内徳信(とくしん)さん(84)=元社民党参院議員=は、建立の背景を振り返る。
 52年発効のサンフランシスコ講和条約で、沖縄は正式に米国の施政権下に置かれた。米側は沖縄に日本の「潜在主権」を残すことは認めたが、日本側は65年、政府統一見解で日本国憲法の「適用はない」と宣言した。
 沖縄には米国憲法も適用されない。軍人の高等弁務官を頂点とする米国民政府が軍事的必要性を最優先に行政、立法、司法上の権力を行使。基地拡大のための土地の強制収用をはじめ政治家の弾圧、表現の自由の規制、事件事故を起こした米兵の無罪放免−などが繰り返された。人々が、基本的人権の尊重、国民主権、平和主義を基本原理とする憲法下での生活を求めたのは言うまでもない。山内さんによると、若者たちは鉛筆で条文を書き写しながらその日を夢見ていた。

◆戦争と隣り合わせ
 72年5月、沖縄の復帰は実現する。しかし「日本国憲法への復帰」は決してかなえられたとはいえない。悲運の発端は、広大な基地の継続・維持が盛り込まれた日米間の沖縄返還協定である。
 返還交渉中、日本政府は基地の扱いについて「核抜き本土並み」と表明し縮小に期待を持たせたものの、復帰前に沖縄本島面積の20%を占めた米軍基地は今なお14・6%と取り組みは進んでいない。
 基地は復帰まで、共産圏をにらむ最前線として最大約1300発もの核が配備され、ベトナム戦争の出撃拠点となった。冷戦終結後も湾岸戦争、イラク戦争などに空軍や海兵隊を送り出してきた。
 日本は戦後一度も他国と戦火を交えていないのに、沖縄は米国の戦争と隣り合わせの状態に置かれ米軍機の事故や米兵、米軍属による事件が繰り返される。在日米軍の特権を定め、翁長雄志(おながたけし)前沖縄県知事が「憲法の上にある」と嘆いた日米地位協定もそのままだ。沖縄県や県警のまとめでは、復帰後2017年末までに、県内で発生した米軍航空機関連の事故は738件(うち墜落は47件)、米軍人などによる刑法犯罪は5967件(うち凶悪事件は580件)。生命、生活、財産が脅かされる日常は法の下の平等に大きく反する。
 その上で、名護市辺野古で進められる新基地建設に県民が重ねて反対の意思を示すのは、当然すぎる行動だ。政府は米軍普天間飛行場の移設・返還のためというが新基地完成のめどは立っていない。その矛盾をどう解消するのか。
 新基地建設を巡ってはことし1月、国内の主な憲法研究者の約4分の1に当たる131人が連名で「憲法の重要原理を侵害、空洞化する」との声明を発表した。解決には「何よりもまず沖縄の人々の人権問題」を考え工事を即時中止すべきだとする。
「民主主義や地方自治の在り方が問われている点で、日本国民全体の問題」ととらえようとの提起は極めて重要だ。
 沖縄の地元紙琉球新報が、本土復帰に関して5年ごとに行っている県民世論調査がある。復帰して「とても良かった」「どちらかと言えば良かった」との回答の合計は、復帰から35年の07年には82・3%だった。40周年の12年にはちょうど80%。さらに5年後の17年には75・5%と幅を広げながら低下している。

◆「自己決定権」を希求
 一方、同紙の別の県民意識調査では、今後の沖縄の立場について自治州や連邦制への移行、または「独立」を望む声が11〜16年の5年間に2割から3割超に急増した。「自己決定権」の希求。裏を返せば、復帰の本意をかなえないままの「日本」不信の表れだ。
 沖縄を真に憲法の下の仲間とする−。中央の政治はもちろん本土側の国民も、あらためて当たり前のことを行いたい。