(社説)東日本大震災8年 「防災庁」を新設すべきだ
                          2019年3月11日   朝日新聞

 被災地を歩くと、8年の歳月を実感する。次々に新しい道路が通り、防潮堤が築かれ、まっさらな街も見えてくる。
 10年間で32兆円を投じる復興で土木工事が進み、各地の景色が大きく変わっている。
 津波の被災地には、長大なベルトコンベヤーで、山から土砂を運んだ街が二つある。ひとつは宮城県東松島市の野蒜(のびる)ケ丘。仙台からJRで30分ほど。流された野蒜駅と東名(とうな)駅を山を切り開いて移した。両駅前に広がる91ヘクタール、440戸は被災地で最大規模の高台移転だ。総工費は377億円。小学校も交番も内科医院も雑貨店もあり、1100人が暮らす。移転事業は住民が主導した。宅地は30年間、無償貸与で、区画は抽選で決めた。
 もう一つは、市街地が丸ごと流失した岩手県陸前高田市。約300ヘクタールを造成中で、総工費は1600億円に膨らんでいる。
中核の商業施設や図書館ができ、店舗も並び始めたが、まだ空き地が多い。市の昨年末のまとめでは、かさ上げした宅地54ヘクタールのうち、66%に利用予定がなかった。市有地が1平方メートルあたり年間350円で貸し出され、「売地」の看板も目立つ。

 ■過疎地向けの制度を
 甲子園球場ほぼ80個分の土地区画整理事業に時間がかかり、多くの地権者が拠点をほかに移したことが響いている。この事業は10年単位の都市開発に多用されてきたもので、迅速な復興にも、人口が減る地域にも適してはいない。だが、ほかに使える方策がなかった。復興庁には、区画整理事業での復興を懸念する声があった。しかし、新たな制度はつくられず、いまもない。この事実が、政府の弱点を端的に示している。災害対応の政策を考える専門の部署が、復興庁も含めてどこにもない。
 復興庁は首相直属で、担当大臣には他省庁への勧告権も与えられた。だが、発足7年で大臣が7人いる役所では、勧告権など使いこなせまい。職員はNPOや企業と連携して新たな支援策も生んだが、基本的に各省からの出向なので、被災地と本省をつなぐ役をこなした。復興現場が霞が関の各省縦割りになるのも当然だった。2021年3月での廃止が法律で決まっているため、政府は先週、後継組織をつくる閣議決定をした。担当閣僚を置く官庁になる見込みだが、具体的な検討はこれからだ。

 ■減災から復興まで
 すでに動きはある。
 昨年、全国知事会と自民党の石破茂元幹事長がそれぞれ「防災省」の創設を提言した。復興構想会議の議長をつとめた五百旗頭真氏も「防災復興庁」を唱えている。いずれも単なる復興庁の後継ではない。防災・減災から、復旧、復興までを総合的に担う役所を想定している。朝日新聞も災害対応の企画、立案、調整に専念できる組織が必要だと考える。
 理由は主に三つある。
 第一に専門的な人材を確保、育成するためだ。復興庁が集めた資料や現場のノウハウの散逸防止にもつながる。
 いま、災害対応や被災者支援は主に内閣府の防災担当があたる。定員は約90人。幹部は国土交通省や総務省などからの出向で、2〜3年で戻る。
 これでは防災や危機管理の知見の蓄積も継承も難しい。
 実際に、段ボールベッドの導入や食費、光熱費の補助の加算などの先例が十分に周知されず、自治体の避難所の質に格差が生まれる弊害も出ている。
 それに何より、専門職員の不在が、過疎地向けの復興制度ができない大きな要因といえる。

 ■国民意識を高める
 第二は巨大災害への備えだ。熊本、大阪北部、北海道で地震が続いた。豪雨被害は毎年のように起きている。さらに首都直下地震の発生確率は、30年以内に70%程度といわれる。南海トラフ巨大地震は70〜80%で、250万棟が全壊する想定もある。現行制度で対応できるはずがない。全国の地域ごとに、緊急時や復旧への対応を考えておかねばならない。その司令塔が要る。第三は、災害対応への国民意識を高めるためだ。新省庁を発足させることは、担当部門ごとに各省に任せてきた従来の手法からの大転換だ。それは政府による強い危機感の表明にもなる。かつての環境庁が国民の環境への関心をより高めたように、防災意識を向上させるだろう。むろん、新組織の所管事務を各省庁の現行業務から切り分ける作業は難しい。消防庁や内閣府原子力防災担当の扱いといった各論になれば難航必至だ。
 しかし、復興庁の後継組織づくりを機に、巨大災害に対応できる新次元の「防災庁」を立ち上げて、しっかり備える。
 それが「3・11」の教訓を生かす施策だと考える。

(社説)大震災8年 残された課題に一段の注力を
                       2019年3月11日   読売新聞

◆人口減踏まえた対応策を探れ◆
 東日本大震災の発生から8年になる。
 死者・行方不明者は1万8430人に上り、関連死も3700人を超える。未曽有の災害は平成史に深く刻まれた。犠牲になった方々の冥福を改めて祈りたい。震災発生後、政府は復興に要する期間を10年間と見積もった。後半5年の「復興・創生期間」も残り2年となっている。残された課題の解決に一段と力を注がねばならない。

◆住民の孤立を防ごう
 甚大な津波被害を受けた岩手、宮城、福島3県では、被災者の生活の基盤となる住宅の再建事業がゴールに近づいている。
 復興住宅は計画の98%にあたる約3万戸が完成し、宅地造成の進捗率も90%を超えている。震災1年後に11万人以上に及んでいた仮設住宅団地の避難者は、3000人台に減少している。政府は岩手、宮城県について、2年程度での仮設解消を見込む。
 懸念されるのは、移転先で孤立する住民が目立つことだ。
 マンション型の復興住宅には、高齢世帯が多く、孤立死が報告される。地元自治体が、NPOなどの協力を得て展開してきた見守り活動も、時間の経過とともに縮小される傾向にある。
移転してきた被災者と地元住民との交流を促す取り組みが欠かせない。多くの住民が集うイベントの開催や自治会運営への支援を通じ、コミュニティーの形成を後押ししていくことが望まれよう。
 津波の被災地では、大規模なかさ上げで造成された宅地の利用にめどが立たないことも、依然として大きな課題である。岩手県陸前高田市では、宅地用のかさ上げ地の約66%で、当面は利用予定がないという。
 いかに街の魅力を高めるか。さらに知恵を絞らねばならない。
 岩手県の宮古―釜石間の鉄路が今月下旬、三陸鉄道リアス線として復旧する。釜石市はラグビー・ワールドカップの会場となる。一過性の話題に終わらせず、こうした機会を地域の活性化に役立てていくことが大切である。東京電力福島第一原発の周辺地域では昨年から、公共施設や住宅を集約し、住民の帰還に備える取り組みが始まった。

◆実効性ある整備計画に
 放射線量が高い帰還困難区域の一部を「特定復興再生拠点」として、優先的に除染する。帰還困難区域全体を除染するには膨大な時間と費用がかかる。各町村内で地域を絞り、再生を図るのは現実的な措置と言える。政府は着実に除染を進めるべきだ。
 ただし、復興再生拠点の避難指示解除は3〜4年後になる。
 ほぼ全域が帰還困難区域の双葉町では、昨秋の調査に避難住民の6割超が「戻らないと決めている」と回答した。医療や福祉に不安があるといった理由が多い。不安を解消するには、実効性のある地域再生の青写真を避難住民に示す必要がある。医療機関や商業施設などをどう整備するか。具体策に踏み込んだ計画の策定が不可欠だろう。避難指示が解除された地域でさえ、住民が戻る動きは依然として鈍い。帰還率が比較的高いとされる楢葉町でも、現在の居住者は震災前人口の半数弱だ。
 こうした現状を踏まえれば、除染後の帰還困難区域についても楽観はできまい。第一原発周辺では大量の除染土が発生し、農地などに積み上げられている。帰還促進のため、その処分は喫緊の課題である。飯舘村では、放射線量の低い除染土を使って農地を造成し、花などを栽培する試みがスタートした。除染土で低地をかさ上げし、通常の土で覆う。丁寧な説明で住民の理解を得ながら、再利用を広げていくことが大切だ。

◆息の長い支援が必要だ
 自治体がばらばらに復興を進めるのではなく、分散する医療機関や介護施設などを集約する。連携して商業施設を誘致する。多くの住民が戻らないことも視野に入れた方策を、検討すべき時期に来ているのではないか。2年後に設置期限を迎える復興庁については、後継組織の設置が閣議決定された。安倍首相は、「復興が成し遂げられるまで国が前面に立つ」と強調している。被災地には息の長い政府の支援が要る。中でも、原発事故の傷痕が深い福島の復興に向けた取り組みは、完了時期が見通せない。後継組織の体制は今後、政府・与党内で検討が進められる。復興という重い責務を担える組織を作らねばならない。

 (社説)東日本大震災から8年 地域再生の芽生え確かに                               2019年3月11日   毎日新聞

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故からきょうで8年になる。
 災害公営住宅の建設や、高台移転のための宅地造成はゴールが見えてきた。だが、岩手、宮城、福島の被災3県で、今なお約5万2000人が避難生活を送っている。
 地域のコミュニティーをどう再構築できるのか。先を見据えれば、そこが最も大事な要素になる。
 福島県浪江町役場の職員だった石井絹江さん(67)は震災後、福島市に移り住んだ。4年前、移住先に農地を借りてエゴマの栽培を始め、瓶詰めしたエゴマ油を販売している。3年前には浪江町内の除染済み農地を新たに借り入れた。月の半分を車で片道2時間かけて通う。商品から放射性物質は検出されていない。

風評被害を乗り越えて
 震災後、広く帰還困難区域となった浪江町は、復興拠点を中心としたコンパクトな町の再生を目指す。避難指示は一部解除されたが、戻った住民は先月末で910人だ。シソ科の植物のエゴマは背丈より高く伸びる。刈り取りは根気がいる作業だ。石井さんは、浪江に移住して農業に携わりたいという20代の若者に今、エゴマ作りを教えている。自身もいずれ浪江に戻るつもりだ。「帰還した人と一緒に農業を取り戻し、健康にいいものを全国に届けたい」と話す。福島の置かれた状況は依然厳しい。廃炉や汚染水対策など課題は山積する。それでも農産物の風評被害は徐々に改善の兆しが見えてきた。
 福島県によると、主要産品であるキュウリなどの市場価格が震災前の水準近くまで回復した。農産物の昨年度の輸出量は、2010年度より4割近く増えた。県が東南アジアなどへのセールスを強化した結果だ。
 消費者庁によるインターネット調査では、放射性物質を理由に福島県産品の購入をためらう割合は14年以降減少傾向で、今年は最少の12・5%だった。福島を支える動きも活発だ。企業などが各地で福島産品の応援販売会を開いている。
それでも福島県の調査では3割以上の人が、食品中の放射性物質の検査が行われていることを「知らない」と答えている。復興庁は昨年、風評被害に立ち向かう福島の高校生を描いたマンガ「ふくしまを食べよう。」をラインで全国に配信した。伝わりやすい形で今後も情報発信を続けるべきだ。
 三陸の津波被災地に目を転じれば、地域で復興の進捗(しんちょく)は異なる。
 津波で住宅の7割が流失した宮城県女川(おながわ)町は、震災後にいち早く町の中心部の駅前を再開発した。遊歩道が整備され、新しい木造店舗が並ぶ。大型商業施設に頼らないまちづくりが全国から注目されたが、観光客は震災前の6割にとどまる。

世代間で復興をつなぐ
 次代を担う人たちが、女川町の地域再生に取り組み始めた。
 川村辰徳さん(37)は、かさ上げ地に店を建設中だ。父親が長く続けてきた釣具店は津波で流された。店の再建に当たり、自ら手掛けるウエットスーツの製造販売も加えた。女川湾は、釣りやマリンスポーツが盛んだ。海に来る人を少しでも増やしたいという。震災後、町内に移住して起業した人もいる。梶屋陽介さん(35)は工房を構え、宮大工の技術を生かしてギターを製造・販売している。「女川の人たちはエネルギッシュで、そんな土地柄に引かれた」と話す
 震災時約1万人だった女川町の人口は6500人を割り込んだ。減少率は県内一だ。浪江も女川も目指すのは震災前の町に戻すことではない。現実を踏まえたまちづくりだ。前を向く若い世代にバトンが引き継がれ、移住者らが加わった新たなコミュニティー作りが各地で芽生えていることは心強い。
 復興政策は今後、公共事業などのハードから、被災者の生活支援や産業、観光振興などのソフト重視にますます力点が移る。被災地の実情を踏まえた支えが必要だ。
 まもなく平成の時代が終わる。この30年に日本は、1995年の阪神大震災と東日本大震災の二つの巨大地震を経験した。日本列島は地震活動の活性期に入っていると、多くの専門家が指摘する。
 南海トラフの巨大地震や首都直下地震の発生は、もう目の前かもしれない。私たちは引き続き復興に力を注ぐとともに、次の震災に備えなければならない。そういう時代に入っていく。

 (社説)3・11から8年 「次」はいつ、どこででも                               2019年3月11日   東京新聞

 東日本大震災以上の規模とされる南海トラフ巨大地震。ほかにも大地震予測がいくつも。いつ起きるかは分からない。自分にできる備えは十分にしたい。
「ここの地面は、海抜7.4メートル。避難場所まで700メートル」−。こんな看板が、人影まばらな通りのあちこちに掛かる。太平洋を望む三重県南部の尾鷲市。外海に接していることもあって、有史以来、大地震に伴う大津波にたびたび襲われた。近いうちに起きるとされる「南海トラフ巨大地震」でも被害が予想される。

◆津波は、逃げるが勝ち
 同市の自宅で、地元の自主防災会会長、山西敏徳さん(86)がしみじみ話す。「『津波は、逃げるが勝ち』です」と。75年前、愛知、三重、静岡県などの沿岸部を襲ったマグニチュード(M)7・9の「昭和東南海地震」(震源・熊野灘沖、1223人犠牲)で発生した津波に巻き込まれた。
発生は、1944(昭和19)年12月7日午後1時36分。この日時は、被災した市内のお年寄りの大半がスラスラと口にする。当時11歳、国民学校6年生の山西さんは「体操で騎馬戦の最中だった。縦に横に激しく揺れて、どこからかブルドーザーみたいなごう音が聞こえた」と言う。
「先生が『裏山に逃げろ!』と叫ぶのを聞き、蛇行する山道ではなくシダをかき分けて真っすぐに登った」。10後、津波が沿岸部を襲った。政府などの資料には「夕方までに6回。最高10メートル」とある。 自分は難を逃れた。しかし−。岸壁に近い自宅は流され、両親が犠牲になった。「山の上から自宅は遠かった。逃げなかったのは悲しい」と今も嘆く。東日本大震災の津波映像を見るたび、往時を思い出して胸がつぶれる 被災して20年ほど後、テレビ局のインタビューに「津波は、逃げるが勝ち」と答えた。それが、標語になったという。今も市役所庁舎に横断幕で掲げられ、「揺れてから5分で逃げれば被災者ゼロ」とも書いてある。 65歳以上の人口が四割を超えた尾鷲市。山西さん自身も高齢だが、心身とも丈夫。「私らの記憶を語り継ぐ後継者をつくっていきたい」と地元の小学校などで精力的に地震と津波の講演をする。

◆理科から社会へ
 山西さんらが被災した昭和東南海地震の2年後、終戦翌年の46年12月に、震源がやや西の紀伊半島沖で、M8・0の昭和南海地震(1330人犠牲)が起きた。西日本の高知、和歌山、徳島の各県などで大きな被害が出た。江戸時代末期の1854年には、やはり震源が隣り合う「安政東海地震」など二つの大地震が32時間間隔で発生している。
 こうした分析などから、東海−九州で死者30万人以上と予測される「南海トラフ」は、一度にではなく、東西別々に続けて起きる可能性がある−。これが、政府の中央防災会議の有識者会合が昨年想定した「半割れ」だ。最初に被災しなかった側の住民の一部にも一週間程度の避難を呼び掛ける。「南海トラフ」は、30年以内に70〜80%の確率で起きると予測される。もう、「発生する」が前提だ。でも「確度の高い地震予知」ではない。
 「半分ずつ二回」の場合、東西どっちが先か。間隔は2年か、32時間か。そもそも、最初の地震はいつ起きるのか−。政府はこうした「予知」を横に置き、「救済」に軸足を移した。有識者会合の主査を務めた名古屋大減災連携研究センターの福和伸夫教授は「理科から社会」の段階に入ったと話す。例えば「半割れ」で先に半分が被災したら、反対側の住民は(自分のリスクはあっても)救いに行くのか。福和教授は「正解のない難題」と指摘。国が枠組みやガイドラインを整備しているという。
 「南海トラフ」ほど巨大な想定ではないが、政府はM7程度の「首都直下地震」が今後30年以内に70%の確率で起きるとしている。首都圏では、東日本大震災でも最大震度6強を観測し、死者・行方不明者61人を出した。直下地震での被害想定は「冬の夕方、風速八メートル」だと死者約23000人、建物全壊・焼失約61万棟−などとなっている。

◆首都直下なども
 このほか、政府の地震調査委員会は2月、東北地方の太平洋側でM7クラスの地震の今後30年の発生確率が上昇したと発表。「東日本大震災後の東北は、依然として注意が必要だ」としている。
 地震学者今村明恒(1870〜1948)は、「災害予防のこと1日も猶予すべきにあらず」という言葉を残した。「日本では、地震はいつ、どこで起きてもおかしくない」と肝に銘じ、「防災、減災」の意識を高めたいと思う。