緒方さん死去 「人間を守る」精神貫く    朝日新聞 20191030

「人間を助けることが何より大事と考えた」「命さえあれば次のチャンスが生まれる」
それは緒方貞子さんに言わせれば「本能的な常識」である。国際政治の難解な世界に、明快で普遍的な哲学を打ち立てた。その緒方さんが逝った。
 国際協力の分野で最前線に立ち続け、確固たる実績を築いた稀有(けう)な日本人だった。終始ぶれることなく追求したのは、「人間の安全保障」である。
 国家の枠組みにとらわれず、あらゆる脅威から人間の安全と尊厳を守る。その概念の実践を強めたのは、難民を支援する国連機関のトップに就いた1990年代初めからだった。
湾岸戦争のイラクの国内で、大勢のクルド人が行き場を失った。国連機関には難民の定義が活動の壁となったが、「国境を越えた難民は助けるのに、国内避難民だから助けないのはおかしい」と援助を決めた。
 既存のルールの理屈ではなく、今その現場に生きる人間の目線で考える。その自由ながら現実に立脚した発想は、国境の垣根が低まるグローバル化の時代を先取りしていた。
 日本の国際協力機構の理事長としても、視野の広さが際立った。途上国の教育に投資するだけでは不十分。教育後の就職ができる経済づくりも視野に入れねば自立にならない。そんな結果重視の支援を模索した。
 人間の安全保障は日本やカナダなどが提唱し、2000年の国連総会が定めた「ミレニアム開発目標」につながり、今はSDGsの略称で知られる「持続可能な開発目標」に発展した。「地球上の誰一人も取り残さない」との目標を掲げる。
 一方で、そうした理念の進展に逆行する動きが拡散したのも国際政治の現実である。
 欧米で難民や移民を排斥する声が強まり、それを追い風にする指導者が伸長した。環境破壊や感染症、テロなど国境を超えた問題が山積するのに、自国第一主義が幅を利かせている。
 だが、そんな風潮だからこそ日本は人間の安全保障の意義を再認識すべきではないか。かつて小渕恵三政権は外交政策の柱に据えて国連に基金を創設し、いまも存続している。
 日本の国際貢献のあり方として、緒方さんが貫いた人間第一の目線と支援は貴重であり、これからの時代も活用すべき指針であるのは間違いない。
 「誰も取り残さない」責任は政府だけでなく、NGOや企業など社会全体にあり、市民一人一人の行動も問われている。
 「東日本大震災を経験し、国際社会の連帯の大切さが身にしみた日本だからできる」。緒方さんは晩年そう語っていた。 

緒方さん死去 今に続く難民支援の現場主義    読売新聞 2019年10月30日

 紛争の現場に自ら足を運び、関係国の政府や軍と協力しながら、難民の命を救うことに全力を挙げた。日本の安全だけを考える「一国平和主義」を戒め、国際協力を訴えた。
 国際情勢の不安定化が進む今こそ、「世界のオガタ」の姿勢を学び、受け継いでいきたい。
 国連難民高等弁務官などを歴任し、日本を代表する国際人として知られた緒方貞子さんが、92歳で亡くなった。
 緒方さんが国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のトップだった1991?2000年は冷戦終結後の激動期だった。内戦や紛争で大量難民問題が多発した。
 イラクでは、フセイン政権の迫害を受ける少数民族のクルド人が、トルコから難民受け入れを拒まれ、行き場を失った。
 UNHCRの本来の任務は、国外に出てきた難民の保護であり、イラク国内のクルド人は対象ではない。しかし、緒方さんは前例を踏襲せず、保護を決めた。
 政府によって安全を保障されない「国内避難民」を難民と同様に扱う。緒方さんの現実的な判断は難民救援のあり方を変えた。
 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では、自らヘルメットに防弾チョッキ姿で現地入りした。国連が空輸する支援物資が孤立した住民を支えていることを強調し、国際社会に支援を呼びかけた。
 国連の官僚主義にとらわれず、常に現場を見て、弱い立場にいる人々に寄り添ったことが、緒方さんが「行動する国連難民高等弁務官」と呼ばれたゆえんだろう。
 弁務官の退任後は、国際協力機構(JICA)の理事長などを務め、紛争後の平和構築や開発支援の重要性を唱えた。国家の安全保障だけでなく、個々の人間の尊厳を重視する「人間の安全保障」の議論でも存在感を示した。
 印象深いのは、精力的な活動を続ける中で、日本の現状を憂える発言が目立っていたことだ。
 日本から海外に行く留学生の減少や、国際情勢への関心の薄さなど、内向きの傾向を案じていた。日本だけが世界から切り離されて「繁栄の孤島」を目指すことはできないとし、他国を尊重する社会になることを願っていた。
 緒方さん自身、米国に留学し、働く女性が少ない時代に、子育てと母親の介護の傍ら、大学教員を務めた後、日本人、女性、学者出身として初の弁務官となった。
 緒方さんのような国際的な人材が育つ環境をどう整えていくか。日本の課題の一つだろう 

緒方貞子さん死去 現場と人間中心を貫いた   毎日新聞 2019年10月30日

 日本人として初めて国連難民高等弁務官を務めた緒方貞子さんが死去した。冷戦終結後の世界で、故郷を追われた難民らに寄り添い、その救援に全力を尽くした。
 貫いたのは、徹底した現場主義と人間中心主義だった。小柄な体を防弾チョッキに包み、イラクや旧ユーゴスラビアなどの紛争地に自ら出向き、難民らの声に耳を傾けた。
 弁務官に就任した1991年、湾岸戦争でイラクからトルコ国境に多数のクルド人が向かった。保護任務の対象でない「国内避難民」だったが、人道的視点から救援に乗り出した。難民支援の転機となった。
 ちょうど冷戦構造によって封じ込められていた民族・宗教対立が表面化した時期だった。それだけに、人道支援が紛争当事者に政治利用されないよう細心の注意を払った。
 「一番大事なのは人間です」。従来、国家を守る枠組みで語られてきた安全保障の領域において、国家に守られない個々の人々を守る「人間の安全保障」の重要性を提起した。
 国際社会で活躍する日本人女性の先駆けでもあった。退任後は国際協力機構(JICA)初代理事長として人道支援と開発の連携を進めた。
 グローバル化の進行に伴い、移民・難民は急増している。難民や国内避難民のように移住を強いられた人々は7000万人を超す。
 「人道問題に人道的解決策はない」「難民問題の発端は政治」。緒方さんは政治指導者に人道危機解決への取り組みを働きかけてきた。
だが、難民や移民を取り巻く現状は目を覆うばかりだ。欧米の一部政府は「反移民」の受け入れ規制策を打ち出し、中東などの紛争地では難民の苦境に出口が見えない。
 日本にとっても人ごとではない。昨年、日本で難民認定申請をした外国人1万人強のうち、認定を受けられたのは42人にとどまる。欧米に比べ、極めて少ない傾向が続く。
 緒方さんは近年、難民の受け入れに慎重な日本の姿勢に苦言を呈し、日本が経済力に見合った「人道大国」になるよう訴えてきた。
 私たちの集団的な努力で、避難生活の恐怖や苦痛を、安全と結束に変えられる――。紛争の犠牲者に向き合い続けた緒方さん。その願いはまだ果たされてはいない。

緒方貞子さん 現場主義を全うした   東京新聞 2019年10月30日

 国連難民高等弁務官として東奔西走し、戦火におびえる難民らに手を差し伸べてきた。自国第一主義が幅を利かす今こそ、「現場主義」を活動の基本とする緒方貞子さんの志に学びたい。
 緒方さんが亡くなった。92歳だった。
 「難民保護は抽象的な概念ではない。食料や毛布を与え、家を補修するなど、現場で最も効果的な具体策で対応することが重要」。ジュネーブの国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)本部で1997年、緒方さんは本紙の取材に、こう強調していた。
 内戦が激しかったアフリカ中央部のコンゴ(旧ザイール)、ボスニア・ヘルツェゴビナなど、訪れた現場は40カ国以上に上る。
 重要なのは、どの紛争当事者にも肩入れすることなく交渉し、各勢力の信頼を得ることだという。難民の移送や保護をスムーズに進めることができるよう、協力してもらうためだ。現場主義ならではの工夫が光る。
 国連難民高等弁務官を約10年間務めた後、独立行政法人・国際協力機構(JICA)理事長に就任。国家間だけでは解決できない飢餓、難民の発生、感染症などの脅威から人々を守る「人間の安全保障」の理念を掲げた。
 海外の態勢を手厚くし権限を拡大、青年海外協力隊を重視するなど、ここでも現場主義を貫いた。
 難民の苦難は今も絶えることはない。内戦が続くシリアでは、500万人以上もの難民と600万人以上もの国内避難民が家を失った。ミャンマーでは、迫害された少数民族ロヒンギャ70万人以上が難民となった。
 しかし、トランプ米大統領は米国第一主義を唱え、難民への寛容政策を唱えたメルケル独首相は非難の砲火を浴び、欧州連合(EU)各国も難民受け入れに及び腰だ。日本の若者の海外への関心も低くなっているという。
 「自分さえよければ」では、いずれ行き詰まるだろう。緒方さんのように世界の現場に足を運び、支援のための知恵を絞りたい。
 国際社会で活躍する女性のさきがけでもある。自らも女性運動家の故市川房枝さんの勧めで国連の仕事を始めた。
 大学や国連での仕事を経て、難民支援の道に入ったのは60歳を過ぎてからだった。夫や子どもと離れての単身赴任も長かったが、家族の絆には気を配ってきたという。先駆者の勇気と行動力にも学びたい。