沖縄知事選の教訓

日新聞 2018年10月5日
翁長雄志(おながたけし)・前沖縄県知事の死去に伴う9月30日の知事選。翁長氏の後継として、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への県内移設反対を訴えた玉城(たまき)デニー元衆院議員が過去最多の得票で初当選した。移設を進める安倍晋三政権が全面支援した候補は敗北。「辺野古ノー」の民意から政権がくみ取るべき教訓は多い。
「辺野古」以外の選択肢を
我部政明・琉球大教授
米軍普天間飛行場の名護市辺野古への県内移設に反対する玉城デニー氏が圧勝した選挙結果は「米軍基地をこれ以上負担したくない」という沖縄県民の叫びだ。玉城氏は明るい性格で物腰が柔らかく、県民の多くは歴代知事とは違ったアプローチでこの問題に取り組むことを期待している。一方で県民は政府との交渉が甘くないことも認識している。翁長雄志前知事が命をかけても移設工事の着手を阻止できなかったこれまでの経緯を踏まえ、玉城氏が結果的に有効な手立てを打ち出せず、出口の見えない闘いに追い込まれることも覚悟しているだろう。 それでも、日本全体が日米安全保障体制の恩恵を受ける中で、沖縄だけがその代償としての基地の過重負担をこれまでも、これからも背負い続けなければならないことへの不公平感に対し、多くの県民が今一度、明確な意思を示す必要性があると考えたのだろう。 安倍政権が支援した佐喜真淳(さきまあつし)氏の陣営は、辺野古移設に反対して政府と対立するのではなく、協調して経済振興を図る道を訴えたが、支持の広がりは限定的だった。国からの財政移転に依存する自治体や公共事業関連の業界は「国とのパイプ」に敏感かもしれないが、観光業やサービス業などの第3次産業の割合が大きい沖縄では、国の振興予算の増減よりも景気に左右される。そもそも沖縄は非正規雇用の割合が高く、貧困層には振興策の恩恵が届いてこなかった。「所得向上」や「子育て支援」を振興策の目玉だと訴えられても、県民は現実感を抱けなかったのではないか。この数年、国内外の観光客の増加を感じる機会が多い。政府と対立した翁長県政下でも、国際環境の変化と自助努力で沖縄の観光産業やサービス業などは経済成長を続けた。政府に従うかどうかで振興予算や交付金を差配する「アメとムチ」の基地政策の有効性は失われている。「安全保障政策は自治体の選挙に左右されてはいけない」との意見がある。しかし、自治体が住民の利益を追求するのは当然であり、住民の負担が大きいと判断されれば、国の政策と衝突し、自治体選挙の争点になる。安倍政権は「安保は国の専権事項」として沖縄民意の干渉を断ち切ろうとしているが、自治と安全保障との敷居を決めるのは有権者だ。 政府は「辺野古は唯一の選択肢」と主張し、議論を差し挟む余地がないように見せかけているが、選択肢のない政策決定はあり得ない。軍事に詳しい専門家ほど予算や人員配置などの制約を認識し、複数の選択肢を持っているはずだ。どれを採用するかは政治の意思。沖縄県民に寄り添うなら、政府は辺野古以外の選択肢を探るべきだ。対立をあおっていては、安定的な安保政策の追求はできない。翁長氏が大勝した2014年の前回知事選では多くの県民が「民意で移設を阻止できる」と考えた。移設工事が埋め立ての土砂投入直前まで進行した段階での玉城氏の勝利は、より歴史的な意義がある。政府や国民は辺野古以外の選択肢を考える時期に来ている。【聞き手・比嘉洋】

従来以上に丁寧な説明を
田中均・日本総合研究所国際戦略研究所理事長

玉城デニー氏の当選で、政府に対する沖縄の反発が改めて示された。政府は米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設を進めるべきだが、従来以上に丁寧な説明と沖縄に寄り添った施策なしでは、日米安保体制を揺るがしかねない不満が沖縄にくすぶり続ける。 安全保障政策は、周辺国の脅威などに応じ政府が責任を持って決めるものだ。時々の民意に左右されるわけにはいかない。沖縄の問題が難しいのは、沖縄が日本の安全保障環境を左右し、安全保障政策を決定する主体ではないのに、本土に比べて不公平な負担を一方的に強いられてきた点にある。 私は、普天間飛行場の返還などを決めた1996年の日米合意の頃、橋本龍太郎内閣の下で米国との実務交渉にかかわった。歴代政権が沖縄問題に十分取り組めなかった反省もあり、橋本内閣は日米安保の強化と同時に、できる限りの負担軽減に取り組んだ。11の米軍用地返還を決め、実弾射撃訓練の本土への分散移転も実現した。 普天間飛行場の代替施設も県外にできればよかったが、現実的でなかった。日米合意について「事前に沖縄の理解を得るべきだった」との批判もある。だが、安全保障上の必要性と民意の一致は不可能だ。代替施設をできる限り小さくして、後から理解を求めるしかない。ただ、日米合意の段階で代替施設の内容を決め切れなかったことが、問題を複雑にした。 当初は、普天間飛行場より小規模で、移動、撤去が可能な海上ヘリパッドを検討する方向だったが、議論を始めると、沖縄側の反対に加え、施設の具体案が百出で話が進まない。米軍も固定翼の機体(オスプレイ)運用のために本格的な滑走路が必要になった。結局、2006年にできた現行案は想定よりもはるかに大規模になった。しかも、09年に当時の鳩山由紀夫首相が「最低でも県外(移設)」とリップサービスして話を蒸し返し、今に至る混乱を招いた。その間、日本の安全保障環境は悪化し続けてきた。中国の軍事力は増大し、北朝鮮も核開発を進めて大陸間弾道ミサイルすら完成に近づいた。辺野古に建設中の基地の機能の必要性は増している。日米両国の実務者が在日米軍基地配置の現状が合理的かどうか、米軍の前方展開のあり方や自衛隊の役割強化を含めて、包括的な観点から再検討し続ける必要がある。 安倍晋三政権が強硬な理由には、移設問題が引くに引けない段階まで来たことや、自民党が国会で圧倒的多数を占めている政治情勢があるのだろう。長年、沖縄側と安定的な合意を得られないことへの、いらだちも分かる。だが、もっと丁寧に基地の必要性を説明し続け、沖縄に「心から合意はしないが、政府の立場も論理的に理解はできる」という雰囲気を醸成することが大切ではないだろうか。 沖縄の被害者意識には、沖縄戦や戦後の米軍統治などの歴史的背景がある。政府は沖縄に犠牲を強いてきたことへの「後ろめたさ」を忘れずに、必要な政策は断固進める。さもなくば、今後も沖縄は選挙のたびに政府の方針を支持したり、批判したりと揺れ動き続けるだろう。【聞き手・鈴木英生】

「地位協定改定」公約の重み 
河野康子・法政大名誉教授

オール沖縄」を打ち出した翁長雄志前知事の姿勢を改めて評価したい。沖縄返還交渉を振り返ると、住民の復帰運動は日米両政府にとって大きな意味を持っていたからだ。今回の玉城デニー氏の当選も沖縄県民の民意であり、十分に尊重されなければならない。施政権返還に向け、1967年11月の日米首脳会談で沖縄返還時期を「両3年内」に決めるという佐藤栄作首相(当時)の見解が共同声明に盛り込まれた。これで施政権返還のレールが敷かれたような解釈も見かけるが、米国務省はまだ「現状維持か返還」の両にらみだった様子が公電などからうかがえる。米国務省はいつ返還要求を切実に捉えたのか。68年11月に行われた琉球政府行政主席初の公選で屋良朝苗(やらちょうびょう)氏が当選した時だった。即時復帰を掲げ、革新系が支援する屋良氏に、日米両政府が支援する段階的復帰論の西銘(にしめ)順治氏が敗れた。選挙直後に沖縄入りした米国務省担当者は、返還に向かうほかないという趣旨の報告を書いている。つまり、沖縄の民意は米国にとって大問題だったのである。それは日本政府を動かす原動力にもなった。逆説的だが、屋良氏の勝利は佐藤首相を有利にし、対米交渉に臨む日本政府にとっての追い風になった。この歴史を踏まえれば、政府も沖縄県民も、今回の選挙結果を重く受け止めなければならない。 現在の米国政府は、施政権は既に返還したのだから、米軍普天間飛行場移設問題は日本の国内問題と見ているところがある。米国政府にとっては、安倍晋三政権が進める辺野古移設計画が前提になっており、米国にとっても不都合な話ではない。返還を急いだ佐藤政権と、安倍政権の沖縄認識にはかなりの温度差が感じられる。 言い換えると、今は、日米両政府間の提携が強い一方、日本政府と沖縄のパイプは弱くなっている。だが、そんな日米同盟は不安定で脆弱(ぜいじゃく)だろう。返還前の67〜68年には、沖縄にあった日本政府の出先機関の職員が本省へ頻繁に情勢報告していた。昨今、同様の動きは見えてこない。 沖縄県民の米軍基地負担は受忍の限度に近づいている。事態を深刻に受け止め、日米同盟が必要だからこそ沖縄に基地が集中するという現実を直視し、本土に移す「基地引き取り運動」に加わる元自衛官らもいると聞く。安倍政権はこうした可能性を模索しているだろうか。 在日米軍の法的地位を定めた日米地位協定の改定に加え、補足協定の検討も重要だ。沖縄県庁は他国の地位協定の調査などを進めているが、政府も一緒に行ってはどうか。プロジェクトチームを作る方法もある。地位協定改定は、玉城氏も佐喜真淳氏も選挙で訴えた。政権側は玉城氏を推さなかったにしても、2人が主張した意味は重い。
沖縄は日本全土の安全保障を一手に担っている。基地の過重負担を軽減し、住民の不満が暴発しないよう対応するのは、日米同盟を重視する日本政府の責任だ。一自治体の選挙が同盟を揺るがしかねないという現実を認めることから始めてほしい。【聞き手・岸俊光】