続報真相 参院選後に改憲目指すなら 安倍首相よ憲法語れ
    
                  毎日新聞2016年7月1日 

 「3分の2」。この数がこれほど注目される参院選があっただろうか。その理由はもちろん、改憲勢力が3分の2以上の議席数を獲得すれば、憲法改正の国会発議が可能になる条件が衆参両院で整うからである。だが、憲法論議は盛り上がらない。「任期中に改憲を成し遂げたい」と言う安倍晋三首相が、選挙期間中に憲法を語らないことも影響していると見られる。このまま争点にしなくていいのだろうか。【江畑佳明】

「安保環境厳しい今こそ」積極派も注文

 安倍首相が選挙演説で特に力を込めるのは「アベノミクスは失敗していない。でも道半ばだ」というくだりだ。経済政策に時間を割く演説について、マスコミ各社は「憲法改正に触れない」と指摘する。そうであっても、改憲したいという政治信念を抱いているならば、いつ語ってもおかしくない−−。そんな思いで街頭演説に出かけてみた。

 6月27日夕刻、JR桜木町駅(横浜市)の駅前広場には約3000人(主催者発表)が集まった。梅雨空の下、聴衆の熱気でムシムシする。

 安倍首相が選挙カーの上に姿を見せると拍手が湧き起こる。当の主役は「最大の争点は経済対策であります。民進党、共産党は共通の政策がありません」と一気にまくしたてた。

 そして雇用の増加、有効求人倍率や最低賃金の上昇など、数字を挙げてアベノミクスの成果を強調。最後は「無責任な人たちに子どもたちの未来を、日本の平和と安全を託すわけにはいかないんです!」と声を張り上げた。演説は約20分間。結局、改憲については触れずじまいだった。

 釈然としない気持ちを抱えたまま、高見のっぽさんと会った。かつてNHKで放送された子ども向け工作番組「できるかな」に出演していた「ノッポさん」である。82歳だが、動作は相変わらずキビキビとしている。でも、テレビで見た親しみやすいキャラクターと違い、のっぽさんはやや怒り気味だ。「我々が子どもの頃は、国がうそをついていた時代でした。今回の参院選を見ると、その記憶が頭をもたげてきます」

 戦時中は多感な少年時代だった。「戦況の悪化は明らかだったのに、国は敗退の事実を『転進した』などと隠し続けました。この構図は現在と似ていると感じます」。改憲については語らず、アベノミクスの実績ばかりを強調する。のっぽさんは今、戦時中の国と同じ危うさを感じ取っている。

 のっぽさんはこう続けた。「本音を語らないのは、有権者を軽く見ている証拠だと思います。『経済政策を前面に出せば有権者は飛びつくから、ごまかし通せるはず』と考えているのでは。演説で『子どもたちの未来のため』と言うなら、今きちんと本音を語り、議論すべきです。私と同じような経験をこれから何十年も生きる『小さい人』に味わわせたくない」。敬意を込めて「小さい人」と呼ぶ子どもたちの未来を大切にしてほしい、という思いが強いのだ。

 ここで改憲に関する安倍首相の発言を振り返ろう。

 安倍首相は今年の年頭記者会見で改憲について「参院選でしっかり訴えていく。その中で国民的な議論を深めていきたい」と争点化を明言した。だが、公示前の6月19日に開催されたインターネット番組の党首討論では「選挙結果を受け、どの条文を変えていくか議論を進めていきたい。次の国会から憲法審査会を動かしていきたい」とトーンダウンした。

 自民党はどうかというと、選挙公約(全26ページ)の末尾に「各党との連携を図り、あわせて国民の合意形成に努め、憲法改正を目指します」とだけ記した。

 この状況に、民進、共産など改憲に反対する野党側は、安倍首相や自民党に対し「改憲を正面から訴えるべきだ」と批判している。

 憲法の争点化を主張するのは「護憲派」ばかりではない。改憲に積極的な産経新聞は、6月21日朝刊の社説「主張」欄でこう論陣を張った。見出しは「参院選と憲法改正 首相が率先して語る時だ」。まず「改正を旗印にしてきたこれまでの姿勢は何だったのか」と疑問を呈した上で、「国政選挙で論じ、道筋を示すのは当然のことではないか」と訴えている。

 安倍首相のブレーンの一人、麗沢大教授(憲法学)の八木秀次さんも「日本の安全保障環境が非常に厳しくなっている今こそ、憲法改正を訴えてほしい」と注文をつける。

 最近の中国、北朝鮮の動きを見据えての考えだという。6月に限っても、中国軍の軍艦が鹿児島県沖の領海や、沖縄県・尖閣諸島沖の接続水域を航行。北朝鮮は中距離弾道ミサイルの発射実験を行った。「このような状況を念頭に『自衛隊が今も憲法で位置付けられていないままでいいのか』という改憲の方向性について問題提起はできます。憲法論議を避けるがあまり、重要な安全保障の議論までも控える必要はありません」と主張する。

 それにしても、改憲が悲願とされる安倍首相はなぜ、積極的に語らないのか。八木さんは、第1次安倍政権下の2007年の参院選で、自民党が大敗した過去が影響していると見ている。「憲法改正を叫んで、結局有権者の共感を得られませんでした。選挙で憲法を語るリスクが骨身に染みている。改憲を声高に叫ばないのは選挙を戦う上で一つの戦術でしょう」

 自民、公明両党の幹部も同じ考え方のようだ。自民の二階俊博総務会長は5月、「自民党が先頭に立って憲法改正に旗を振る姿勢を示したら、選挙に勝てない」と記者団に語った。連立政権を組む公明の山口那津男代表は「(改憲への機運が)成熟していない」と繰り返し述べている。やはり、「憲法を語っても選挙にマイナスだから、避ける」という意図があるのだろうか。

重要問題スルーすれば民主主義揺らぐ

 気になる調査がある。毎日新聞が公示直後に行った世論調査で有権者に重視する争点を尋ねたところ、「憲法改正」は13%で、「年金・医療」(27%)に次ぐ2番目だった。同時期の読売新聞の調査でも「憲法改正」(9%)は、「社会保障」(35%)、「景気・雇用」(21%)に続く3番目で最重要の課題ではなかった。

 安倍首相や自民党が憲法を語らない背景には、有権者が目先の問題を優先しているから、という事情もあるのだろうか。

 有権者心理に詳しい国際医療福祉大教授(政治心理学)の川上和久さんはこう読み解く。「社会保障など生活に密着した争点が憲法より重視されるのは自然なこと。有権者は少しでも安心して日々の暮らしを送りたいのですから。それに対して憲法は、これまでは安全保障と絡めた9条を巡る議論がほとんど。重要だと分かっていても、現実感を持って考えるのは難しいテーマです。ですから憲法が争点のトップにならなくても、有権者を責めるべきではありません」

 ただ、有権者の変化を感じるとの意見もある。市民がお茶を飲みながら憲法について考える「憲法カフェ」を各地で開催している弁護士の太田啓子さんが語る。「年金など社会保障の充実を求めている人は多い。でも憲法を少し学ぶと、社会保障が心配という気持ちと同じように、『私たちの憲法が危うくなると、自由や人権はどうなるの』と次第に想像力が広がっていきます。憲法に関心を持つ人は増えてきていると実感します」と語る。憲法を語ってほしいという有権者が増えているのならば、それに応えるべきだというのだ。

 「マニフェスト政治」の提唱者、元三重県知事で早稲田大名誉教授の北川正恭さんも、憲法論議を積極的にすべきだと訴える。「国の基本である憲法を変えようというのに、この参院選で語らずしていつ語るのですか? 選挙は有権者の声を聞く絶好の機会であり、自らの考えを説明する最大の場。その過程を経ずして『3分の2の議席を取ったから国会発議を進める』となったら、これは暴挙に等しい」と指摘する。

 もう一つ重要な争点と挙げたのが、民主主義の行方だ。口調に熱がこもる。「選挙の基本は、政党や政治家が政策を懇切丁寧に誠意を持って有権者に語り、有権者はそれを基に投票先を判断すること。それなのに今回のように大事な問題をスルーすれば、有権者の政治不信を招き、民主主義も深化しません。安倍さんは憲法だけでなく、消費増税の延期に伴う影響などについてもあまり触れません。都合の悪いことは語らない、という姿勢では政治不信が強まるばかりです」。民主主義が揺らぎかねないと危惧している。

 投票日は10日。選挙期間はまだ残っている。国民を軽視していないなら、安倍首相は正々堂々と憲法について語るべきではないか。