75年前の12月7日(日本時間8日)、日本軍の奇襲で太平洋戦争が始まった。その戦地、ハワイ・真珠湾を今月、日米の首脳が初めてともに訪れる。「開戦の日」は今も米国では特別な日だが、日本ではそう意識されていない。あの開戦がいま教えることを聞いた。

 

 ■責任不明確、同じ問題いまも 堀田江理さん(歴史研究家)

 日米開戦から75年の節目に、日本の現職首相が初めて、米大統領とともに真珠湾を訪れる。このニュースを、希望をもって受け止めました。

 犠牲者の慰霊、未来への平和の祈りはもちろんですが、なぜ日本が真珠湾の奇襲攻撃によって開戦したか、多くの人が興味をもつきっかけになればと願っています。

 私自身がこの問題と直面したのは、東京から編入したニューヨーク近郊の高校でのことです。歴史の授業で級友に「なぜ日本は真珠湾を攻撃したの」と聞かれ、うまく説明できなかったことから、探求が始まりました。

 米国では、太平洋戦争はだまし討ちによって余儀なくされた「大義のための戦い」と認識されがちです。米読者に日本側の背景を伝えたいと、英語で本を出したのが3年前です。政治家や軍人の日記、回想録、政府内議事録、米公文書館の外交史料などを突き合わせ、書き進めました。今年6月、その日本語版「1941 決意なき開戦」を刊行しました。

 調べるにつれ、日本は戦争を避けられる機会を次々と逃し、選択肢を狭め、ほぼ勝算のない戦いになだれ込んだ、という思いを深めました。

 例えば1941年6月、ドイツがソ連と開戦したことは、日本が日独伊三国同盟から離脱する絶好の機会でした。米政府との関係修復の大きな一歩となったはずです。しかし日本はその可能性を積極的に検討せず、7月には南部仏領インドシナへの進駐を決定します。ルーズベルト米大統領は日本の撤兵と引き換えにインドシナの中立化を提案します。政府はこれを黙殺し進駐を決行、米国は「冷水を浴びせられた」と態度を硬化させます。撤退は屈辱的でも、後に来る開戦よりはるかに賢明な選択だったはずです。

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 日本では開戦を、軍部の独走と考える人が多いでしょう。米国の対日石油輸出禁止や米、英、中、オランダによる「ABCD包囲網」で追い詰められた結果という被害者意識も共存しています。

 実際は、要所要所で戦争回避とは異なる選択を続け、自ら後戻りを難しくしたのです。政府や軍部にも開戦反対をほのめかす人はいました。しかし、身を挺(てい)し戦争に歯止めをかけようとする指導者はいませんでした。

 米国の工業生産能力は日本の74倍以上という政府機関の調査結果もあり、日米戦が圧倒的に不利なことは明白でした。しかし万が一に望みをかけ、打って出たのが75年前の12月でした。メディアの妥協も見過ごせません。31年の満州事変から、新聞はこぞって軍部を支えました。自己検閲を一度始めると、軌道修正は難しいものです。

 英語版の刊行直後、面識のある作家フィリップ・ロスから手紙が来ました。「真珠湾攻撃のとき8歳だった。80歳でこの本を読み、やっと開戦の経緯を理解できた」と書かれていました。日本側の弁明と受け止められるのを懸念していましたが、米国での書評は「複雑な政策決定がわかりやすく述べられている」と好意的でした。

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 日本語版の副題は「現代日本の起源」です。開戦は多くの公式、非公式の会議を経て下されました。にもかかわらず、指導者層にことごとく当事者意識が欠けていました。東京電力福島第一原発の事故も新国立競技場の建設も、事後処理や決定過程が75年前と酷似しています。

 豊洲市場の建物の下に盛り土がない問題も同じです。小池百合子東京都知事は「流れの中で、空気の中で進んでいった」と説明しました。責任の所在がわからない点で似ています。開戦の決断を取り囲む状況を「空気」「雰囲気」でよりよく説明することはできます。しかし判断ミスや勇気の欠如は、自然発生しません。責任は、あくまでも人間にあるのです。

 (聞き手・川本裕司)

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 ほったえり 1971年生まれ。英オックスフォード大学研究員などを経て2016年、「1941 決意なき開戦」でアジア・太平洋賞特別賞を受賞した。

 

 ■亡国に至った強兵一本の道 鎮目雅人さん(早稲田大学政治経済学術院教授)

 戦争に至った本質的な理由を考える上で重要なのは、日本が自らの「国のかたち」をどう描いたか、それが結果として何を招いたかを見ることだと思います。

 逆に、歴史の一時期だけに着目して全てを語ろうとする姿勢では、日本近代史の問題の本質をとらえることはできません。

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 古代以来、日本の国のかたちは超大国中国との関係の中で考えられてきました。中国の皇帝を中心にした国際関係、「華夷(かい)秩序」の中で自らを位置づけ、外交や交易、文化交流を進めました。

 しかし、19世紀半ばの米国ペリー艦隊の来航で、体制は根本的な見直しを迫られます。多くのアジア諸国が欧米の植民地となる中で生き残るために、開国に応じ、欧米中心の新たな秩序の中で地位を向上させる道を選択しました。

 従来の価値観に固執せず、異質な価値も受け入れ、吸収していく柔軟性が日本を存亡の危機から救ったのです。旧秩序にこだわって国土を欧州に蚕食されていった中国との違いがここにあります。

 新たな国のかたちは「開放経済下の通商国家」です。生糸など自らの得意分野に特化して貿易の利益を享受し、金融面では隷属しないよう外国資本に過度に依存することを避けつつ、日露戦争などの国難には英米などからの資金調達をちゅうちょしませんでした。

 欧米と肩を並べる手段が「富国強兵」であり、その基盤が「殖産興業」でした。強兵には欧米から武器を買わねばならず、稼いだ外貨が国外に流出する。日本の政治家たちには、富国と強兵を同時に達成するバランスが求められましたが、実に難しいことでした。

 日清、日露戦争、第1次世界大戦を経て、日本の地位は大きく向上しました。経済的には第1次大戦の勝者は、戦中に稼いで生産設備も無傷だった日米でした。

 しかし、この段階になってバランスが崩れ始めます。「富国」と「強兵」の間で揺れた日本は最終的に強兵一本、つまり「軍事大国」への道を選択し、中国と米国を相手に、同時に戦争をするに至ります。この流れは太平洋戦争まで続きますが、経済の面から冷静に見れば非現実的な選択でした。

 中国と米国は日本経済にとって主要貿易相手国であり、石油などが輸入できなくなる一方、市場も失ってしまう。「軍事大国」は絵に描いた餅でした。

 敗戦で、国のかたちを復活させることから再出発しました。吉田茂と後継者、国民所得倍増計画の池田勇人は、強兵を捨てて富国に注力しました。その果実が類を見ない高度経済成長だったのです。

 世界の大国となった日本の高度成長の経験は、経済開発のモデルとなり、環境汚染や温暖化など新たに表面化した地球規模の問題について、主導的役割を果たすようになりました。

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 いま英国の欧州連合(EU)離脱の選択や米国第一主義を唱えるトランプ氏の登場で世界経済の変化を憂える声があります。保護主義とブロック経済化で戦争となった過去を連想するのでしょう。

 近現代史の歩みが示すのは、相互の信頼を構築するのは決して容易なことではないが、その努力を続ける意義は小さくないということ。また軍事費は、需要の拡大や技術革新など成長率を高める面もあるが、究極的には破壊のためのものであり、人々の生活を豊かにはしないということです。

 今回、日米の首脳が合同で太平洋戦争が始まったハワイ・真珠湾を訪問することになりました。日米をはじめ、世界の人々が改めて歴史から学ぶきっかけとなればよいと思います。

 今こそ学んでほしいのは、強兵が亡国になり、富国が成長に結びついた20世紀の日本の経験です。とりわけ、中国などアジアの国々の若者に知ってもらいたいと考えています。

 (聞き手 編集委員・駒野剛)

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 しずめまさと 1963年生まれ。世界恐慌後のデフレ克服策「高橋財政」に精通。日銀金融研究所などを経て2014年から現職。著書に「世界恐慌と経済政策」