「違憲」立法は許さない 安保法案、採決強行
 毎日新聞社説
            毎日新聞 2015年07月16日 
 

 「憲法違反」の疑いは結局、晴れなかった。衆院特別委員会で可決された安全保障法制関連法案。憲法九条の専守防衛を損なう暴挙を許してはならない。

 安倍内閣と自民、公明両党には「ためらい」はないのか。政府提出の安保法案がきのう、衆院特別委員会で与党の賛成多数で可決された。抗議する野党の怒号が飛び交う中での採決強行である。

 与党側はきょう衆院本会議でも可決し、参院に送付する方針だ。論戦の舞台を参院に移し、今の通常国会会期末の九月二十七日までの成立を目指す、という。

◆立憲主義を揺るがす

 この法案の最大の問題点は、合憲性に対する疑義である。

 自民党政権を含め歴代内閣は、集団的自衛権の行使は憲法九条が許容する自衛の範囲を超え、許されないとの憲法解釈を堅持してきた。国会や政府部内での長年の議論を経て確立したものだ。

 しかし、安倍内閣は昨年七月、憲法解釈の変更を閣議決定し、集団的自衛権の行使に道を開く安保法案を国会に提出した。

 政府側は、法案は合憲だと強調し続けるが、多くの憲法学者や幅広い分野の有識者らが違憲と断じる。報道機関の世論調査でも違憲と考える国民は半数を超える。

 政府はなぜ、指摘を重く受け止めず、法案成立を急ぐのか。

 政府自らが長年、違憲と解釈してきたものを、一内閣の判断で合憲に変えてしまえば、憲法が権力を律する立憲主義は土台から揺らぎ、最高法規である憲法の法的安定性、規範性を損なう。

 例えば政府は、徴兵制を憲法一八条が禁じる苦役に当たるとするが、集団的自衛権のように一内閣の判断で憲法解釈の変更が認められるのなら、徴兵制が将来導入される懸念は消えない、というのが国民の皮膚感覚ではなかろうか。

◆現実、切迫性欠く想定

 そもそもなぜ今、集団的自衛権の行使を認めなければならないのか、説得力ある説明を安倍晋三首相の口からついに聞けなかった。

 首相は、冷戦構造崩壊による、アジア・太平洋地域を含む国際的なパワーバランスの変化を法案提出の理由に挙げている。

 相対的に低下している米国の力を、自衛隊の支援で補い、台頭する中国との軍事バランスを保とうという発想なのだろう。

 今や国際公共財ともされる日米安全保障条約体制の信頼性を高めることは必要だとしても、なぜそれが集団的自衛権の行使容認なのか、明確に説明できてはいない。

 東・南シナ海で海洋進出の動きを強める中国に対して今、必要なことは、国際法に基づいて対応するよう粘り強く説得する、国際社会と連携した外交努力である。

 日中間で偶発的な軍事衝突を避けるための当局者間の「連絡メカニズム」構築も道半ばだ。両国間の信頼を醸成できるよう、首脳同士が率直に意見交換できる環境づくりを急ぐよう一層促したい。

 地域の軍事的緊張をやみくもに高めては、軍拡競争を促す「安全保障のジレンマ」に陥るだけだ。

 首相が海外派兵の例外として挙げたのが、中東・ホルムズ海峡での機雷除去だが、機雷を敷設して海峡を封鎖する恐れがあったイランが、激しく対立してきた欧米と核協議で最終合意した今、どれほどの現実性、切迫性があるのか。

 現実離れした想定を基にいくら議論を重ねても、深まるわけがないのは当然だ。

 国民の命と暮らしを守る安全保障政策は、国民の理解なくしては成り立たない。百時間以上審議を重ねても、首相自身が認めるように国民の理解が進んでいないことを、深刻に受け止めるべきだ。

 違憲の疑いが晴れず、切迫性も乏しいことに加え、十本もの法案を一つにまとめて提出し、一気に審議を進めていること、首相自ら「アベノミクス解散」と位置付けた衆院選が終わった途端、安保政策も信任を得たとして強引に成立させようとすることへの反発も、理解が深まらない要因であろう。

◆国民が暴走を止める

 安保条約に基づく基地提供と引き換えに日本防衛の「矛」の部分を米軍に委ね、自衛隊は海外で武力の行使をしない専守防衛政策は米国の誤った戦争に巻き込まれないための先人の知恵でもある。

 平和国家の歩みを戦後七十年の今、止めるわけにはいかない。

 安保法案はきょう衆院を通過する見通しだが、今からでも遅くはない。政府には法案撤回の政治決断を、国権の最高機関である国会には廃案にする良識を求めたい。

 審議時間をいくら重ねても、論議が深まらないまま、採決に踏み切る愚を再び犯してはならない。

 国の在り方や進むべき方向を決める主権者は私たち国民だ。政府や国会の暴走を止めるため、安保法案反対の声を上げ続けたい。