特集ワイド:暮れゆく「戦後70年」に考える 「平和」って何?
           毎日新聞 2015年12月28日 

<猫のボブが言った。平和って何? きれいな水? 皿? 静けさ?>。ある日、こんな詩の一節が目に留まった。今年5月に亡くなった詩人、長田弘さんの詩「猫のボブ」。猫の問いへの答えを探して、暮れゆく「戦後70年」の街を歩いた。平和とは何−−。【小国綾子】

笑顔、遊び、歌、素直な言葉…ありふれた日常こそ

 「にゃあにゃあにゃあ」。師走の週末、東京都内の練習場では、20〜30代を中心にした「合唱団わをん」のメンバー約40人が、合唱曲「猫のボブ」を歌っていた。この詩が合唱曲になったと聞き、26日の初演を前に、練習にお邪魔した。平和を考えるヒントが得られる気がして。

 猫の鳴き声を模したスキャット。ブルースのリズム。男声と女声の四つのパートが順々に「平和って何?」と歌う。まるで永遠に問い続けようとしているみたい。指揮者の三好草平さん(36)から指示が飛ぶ。「このメッセージを各パートが大事に歌い継ぐ。そこに意味があるんだ」

 作曲者の魚路恭子さん(38)は「戦後70年、安全保障関連法案で揺れた夏にこの詩を選び、作曲することは、音楽家としての私なりの社会参加でした」と語る。

 畳み掛けるような「平和って何?」という歌声の後、ピアノの音がやみ、「ほんとうに意味あるものは ありふれた、何でもないもの」という一節が静かに温かく歌われる。まるで祈りのようだ。

 「音楽が平和そのものだと思っているわけじゃない。ただ、とりわけ合唱は、平和に通じていると思う。歌詞、つまり言葉を通して、ともに歌う者同士が今を生きていることをより感じ合えるから」。魚路さんの言葉が心に染みてゆく。

 「平和って何?」という長田さんの詩を思わせる絵本を見つけた。「へいわってすてきだね」(絵・長谷川義史)。2013年6月23日の沖縄の慰霊の日、6歳当時、与那国島に住んでいた少年、安里有生(あさとゆうき)君(8)が沖縄全戦没者追悼式で朗読した詩が絵本になった。戦後70年の今年、多くのイベントで読まれた。20刷(すり)8万5000部。絵本としては異例の売れ行きだ。

 <へいわってなにかな ぼくはかんがえたよ>。安里君は家族や友達のことや与那国島の日常の風景を淡々とつづる。詩に<ねこがわらう>という言葉を見つけ、猫のボブを思い出した。

 絵本を描いた画家、長谷川義史さん(54)を訪ねた。12月中旬、大阪・梅田の阪神百貨店で、「絵本ライブ」と称して親子連れら約100人を前に「へいわってすてきだね」を読み聞かせていた。

 「安里君の詩に『みんなのこころからへいわがうまれるんだね』という言葉があります。僕もその通りだと思う」

 長谷川さんは2年前、与那国島の安里君に会いに行った。「この詩を絵本にしたい。これを描かなければ、僕は何のためにこれまで絵を描いてきたのか」

 昨年、安倍晋三政権が集団的自衛権の行使を容認する動きを見せてからは「今すぐ描かねば」と他の仕事を中断し、この絵本を描き上げた。

 ユーモアたっぷりの絵本が大人気の長谷川さんがなぜ、正面切って「平和」を取り上げたのか。

 「僕にとって平和の絵本もワハハと笑える絵本も根っこは同じ。笑いは平和だから。これまでは笑える絵本を描いていれば平和につながると信じられた。今は違う。より明確に『戦争に近づかないで』と声に出さなければ危ない時代になってしまった」

 安里君に恥ずかしくない絵を描きたいと、ボツにした絵は109枚に上ったという。特に何度も描き直したのが「みんなのこころからへいわがうまれるんだね」に添える絵だ。

 画面いっぱいの暖色の虹。女の子と男の子が手を取り、ほほ笑み合っている。長谷川さんは何度も描き直し、「平和」の色を探し求めたのだ。

 百貨店では長谷川さんの絵本の原画展が開かれていた。会場には「へいわってどんなこと?」の文字。来場者が正方形の付箋にメッセージを書き込み、壁に貼っている。壁は付箋でいっぱいだ。

 そこに書かれた一人一人の「平和」の言葉。「普通の暮らし」「明日の来ることを信じられること」「笑顔」「好きなことや嫌なことを素直に言葉にできること」「子どもを大声で怒れること」「歌えること」。覚えたての平仮名で書いたのか、「あそべること」という6文字だけの子供からのメッセージもあった。

 ありふれた日常。平凡な時間の美しさ。それは長田さんが「猫のボブ」で伝えようとしたものだ。長田さんは亡くなる前日の毎日新聞のインタビューでこう語っている。「大切な日常を崩壊させた戦争や災害の後、人は失われた日常に気づきます。平和とは、日常を取り戻すことです」

 色とりどりの付箋を前に胸が詰まった。この1年、世界中でいったいどれだけ多くの人が「ありふれた日常」を奪われたのだろう。

 長田さんは「戦後60年」の年、「2005年、春の朝」という文章を残している。

 <日々の平凡さのもつ価値は、それを失ってはじめてようやく明らかになる>

 <何をなすべきかを語る言葉は、果敢な言葉。しばしば戦端をひらいてきた言葉です。何をなすべきでないかを語る言葉は、留保の言葉。戦争の終わりにつねにのこされてきた言葉です>

 「何をなすべきでないかを語る言葉」という文言に胸をつかれた。新しい年が来れば、ある人は「平和憲法を守れ」と唱え、別の人は「世界平和に貢献するために憲法改正を」と主張するだろう。だからもう一度、そして何度でも「平和とは何か」を考えていたい。

 魚路さんの言葉がよみがえった。「私にとって平和とは簡単に答えの出せないもの。でも、答えが出せないから考えなくていいのではなく、むしろ考え続けることが、私なりの答えなのかなって思う。作曲することも、生きることも、私にとってはそうだから」

 今年の元日、福島県の地元紙・福島民報に寄稿された「詩のカノン」という詩がある。長田さんが生前発表した最後の詩とみられる。福島市は長田さんの故郷だった。

 詩の中で長田さんは、国語学者の大槻文彦さんが作った「言海」という辞書の平和の定義を引用している。<タヒラカニ、ヤワラグコト。穏ニシテ、変ナキコト>

 晩年の数編を除けば「平和」という直接的な言葉を詩にほとんど使わなかった長田さんが、最後の詩に辞書の定義を引用してまで、平和とは何かを言葉にしようとしたのはなぜ? 誰も「ありふれた日常」を奪われることのない日のために、私たちに何ができる?

 戦争の記憶を持つ世代が一人また一人とこの世を去る今、それを考え続けたい。その先に「平和」があると信じて。


「猫のボブ」(詩・長田弘)

赤と白のサザンカが咲きこぼれる

緑の垣根のつづく冬の小道で、

猫のボブが言った。平和って何?

きれいな水? 皿? 静けさ?

それからは、いつも考えるようになった。

ほんとうに意味あるものは、

ありふれた、何でもないものだと。

魂のかたちをした雲。

樹々の、枝々の、先端のかがやき。

すべて小さなものは偉大だと。


「へいわってすてきだね」(詩・安里有生)

へいわってなにかな。

ぼくは、かんがえたよ。

おともだちとなかよし。

かぞくが、げんき。

えがおであそぶ。

ねこがわらう。

おなかがいっぱい。

やぎがのんびりあるいてる。

けんかしてもすぐなかなおり。

ちょうめいそうがたくさんはえ、

よなぐにうまが、ヒヒーンとなく。

みなとには、フェリーがとまっていて、

うみには、かめやかじきがおよいでる。

やさしいこころがにじになる。

へいわっていいね。へいわってうれしいね。

みんなのこころから、へいわがうまれるんだね。

(後略)